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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(46)

自分なりの実感にかなうかたちで、「私の倫理」と「私の社会倫理」が一つに結びつく場所を見出すのだ。というか、そんな場所を実顕地づくりと称して今も創っているのだろうか。
しかし、それにつけても先の私の社会倫理「自己より発し、自己に返る(還る)」という文言ぐらい非常にイメージしづらいものはない。
先の「母子系図」の解説、

「私の倫理 〝親は飽くまで、子に資するもの〟、枯木となって朽ち果てるとも、子に尽くし、子孫の繁栄を希うものとしております。子は自己の延長である。この身は永久に絶えない。交代身が子で、しかも社会連鎖の形で子孫に自己が生きているのであり、子孫の繁栄・幸福は自己を全うすることであります」(イズム実顕地づくり考41)

の中で、「交代身が子で、しかも社会連鎖の形で子孫に自己が生きているのであり」といわれても、そこの「社会連鎖」が今ひとつピンとこないのだ。その辺りを山岸巳代蔵は

「人には一人の敵もなく、みな身内です。そうではありませんか、両親を辿っていけば……子孫の行く末の、末の結合を考えれば……どうして一家一門の間で争ってなどいられましょう。
しかも遠く離れた人との結合ほど良縁で、優秀な子孫が産まれる事実は、幾千里離れていても夫であり妻であり、兄弟・親子の間柄にあるもので、その繋りさえ分かれば、どんなことがあっても憎み合えたものではありません」(山岸養鶏の真髄)

と、「その繋がりの事実」を重視する。しかもこうした幾千年来くり返されてきた平凡な「その繋がりの事実」を見る・知ることが、人間精神の出発点だというのだ!?

「山岸養鶏では(技術20+経営30)×精神50と、精神面を強調するのは、鶏を飼う場合の鶏や、社会との繋りを知る精神であって、自分一人よくなろうとの精神では、養鶏も絶対に成功しないとの原理精神のことです」(山岸会養鶏法)
「この精神、この筆法で鶏を飼えば、機会は均等で不揃いなく、各個体能力に応じて満足してよく働いてくれ、人間社会が良くなる循環関連性を説明し、農業養鶏とは科学的にかつ社会学・心理学をも織り込んだ基盤の上に組織立ったものであり、その真髄の一端を述べたのです」(山岸会養鶏法)

こうした「社会連鎖」「その繋がりの事実」「繋りを知る精神」「循環関連性」という表現で、何が語られているのだろうか?
確かに「自分一人よくなろうとの精神」からでは、次のような一節に込められた世界も本当の味も良さも解らない。

「私の場合、
私は現在、現社会経済観から言うと、鶏を飼っておりません。
しかし私は日本中で養鶏していると思っていますし、やがて世界中の養鶏にも、私が浸透することが、ハッキリ判っています。
否、現在世界中の鶏は、全部私が飼っている、否、否、養鶏に限らず、すべての人間行為は人間、私が行っているのです。
解るでしょうか? 私の文章が、私の言々、句々、ちょっと解りかねるでしょう」(山岸養鶏の真髄)

ここには、全人幸福を高らかに謳(うた)い、「私」と全人に繋がっている・ひらかれた「ヤマギシズム」の位置が端的に示されている。世界中のどんな人とでも極悪非道の人も無条件で!同じ場所で「仲良し」なのだと。
解るでしょうか、と問われて私はなんと応える?
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私はなんと応える

世界中のどんな人とでも極悪非道のひとも無条件で!同じ場所で仲良しなのだと。万象悉く流れ、移りゆく その世界 この世界 事実 実際のせかいが 実は そうなのだ その同じ場所に 住んでいる 。でも それは ほんとうはタダのひと が タダの私 裸のわたしであるときに たち現れてくる場所でもあるようです 

福島千鶴代 | URL | 2015-11-01(Sun)18:06 [編集]