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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(52)

津嘉山 誠 様
小栗康平さんの新刊書『じっとしている唄』(白水社刊)をお贈りいただき、有り難うございます。恐縮です。
松本直次さんのブログで、小栗さんの十年ぶりの新作映画「FOUJITA」に津嘉山さんもスタッフとして参加!? にビックリして以来、小栗さんの発言「藤田嗣治が引き受けた近代日本の歪み。その問題は今も解決していない」(日経新聞2015.10.31)について、ずいぶんこの間触発されぱっ放しです。

「近代日本の歪み」なんて、明治の文明開化で当時の時代の感性を代表する夏目漱石等が真面目に受けとめ、作品を通して解き放った日本近代化への矛盾ぐらいにしか見なしていませんでした。それがナント今現在の普段の自分らの「実顕地づくり」そのものが抱えるテーマでもあると気づかされてきました。

よく「自分らはすでに出来上がった実顕地に参画したから、そこでの決まり事など一方的に従い受け入れるだけで、自分で切り開いていくといったやり甲斐が今一つ感じられない」という声を聞くことがあります。その時は「いや、それはお決まりの逃げ口上に過ぎない。いつの時代に参画しても変わらないはず」と反発していました。
でもこれって、いわば明治時代に日本人が文明開化に直面した「とまどい」と同じだと思えてきました。確かにいつ参画しても変わりはないのですが、ここでは未だ「自分のことになっていない外からのもの」と「自分が心からそうであるからそうしている内からのもの」とのギャップの問題でもあったのです。
「ヤマギシズム」文化が自分のものに、自分のこととして受け入れられる過程が大切なのですね。そしてそこの住人になりきることです。その意味では、「その問題は今も解決していない」進行中の出来事です。
うかつでした。でも内心大発見の歓びも伴います。

今度の『じっとしている唄』で自分のテーマと重なる箇所をいくつか並べてみます。
○「見るだけではなく、おばあちゃんをいいなあと思うその内側に入る、ということはどういうことだろうか」(場を共有する)
○「私たちは日本語で『鐘の音が聞こえる』と普通に言う。これが英語やドイツ語 になると『私は聞く、鐘の音を』となる。私は(私が)、鐘の音を聞きます、聞いています、という言い方になる」(述語が主語を包摂する)
○「私たちが暮らしの中で生きる『場』を実感できなくなっている(……)『もの』『人』は『場』と共にしかない」
「受動として世界に向き合い、その世界が新たに立ちあがって見えてくるまで、まだ私たちは見ていない」(じっとしている唄)

それにしても、撮影での光の性質に、いかにも近代的なそれと、それでない光があるのですね?(『FOUJITA』を撮る)
一度津嘉山さんからのご高説を伺いたいものです。
どうか、今後も素晴らしい仕事を続けて下さい。一段と寒くなりましたが、お体も大切に。まずは取り急ぎお礼まで。
2015.12.3      佐川清和 拝
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