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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(54)

フランスの哲学者・ミシェル・フーコー(1926~1984)のコレージュ・ド・フランスでの1982年の講義は「主体の解釈学」という主題だった。一月初めから三月末にかけて毎週水曜日に、途中数分間の休憩を挟んだ2時間以上に及ぶ講義で、学生、研究者をはじめ数多くのパリ市民が大講堂で聴講したという。フーコーは、教壇にたどり着き、原稿を置き、灯りをつけて、トップ・スピードで可能なかぎり間を開けず講義を開始する。
ミシェル・フーコー

1971年から1984年に他界するまで、コレージュ・ド・フランスでの彼の担当講座は「思考諸体系の歴史」であった。当初から一貫して、西欧近代を、近代的な個を、近代的な自我を形づくってきた「唯物論と唯心論の葛藤」といった二元論に裂かれて苦悩する人間性を超えて包括する、いわばデカルト的でない「真理への到達」にたどりつくモチーフにあったのではなかろうか。

そうした意味で1982年の「主体の解釈学」の講義は、デカルトに象徴される「主体が真理へと到達できるための諸条件が認識である」とする切り口から、真理の歴史の近代は始まったと位置づける彼自身の多年の研究の集大成と呼べるものだった。
それ以降、真理は認識の対象になってしまった。それが近代的な考え方として見なされているに過ぎない、と。

だとしたら「哲学とは、主体が真理に到達できる条件について考察するものである」(フーコー)のだから、どのような過程を経て「近代的なもの」が主流になってきたかを歴史をさかのぼることで究明されていかねばならない。
そのことは同時に、主体が真実であるためのかつて存在していて近代においては見失われている「生の技法」を明るみに出すことを意味していた。
ちょっと視点をずらすことによって浮かび上がってくる3D写真のように、「見えているものを見えるようにする」ことにあった。
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