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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(57)

確かに現代社会では、自己への配慮はなにやら疑わしいものになってしまった。自己に気を配るということは、ある時期から、自己愛の一形式、エゴイズムや個人的な関心の一形式として、糾弾されるようになってしまった。

「自分自身に専念する」「自分の世話をする」「自分の中に引きこもる」「自分の中に退却する」「自己の中に歓びを見いだす」「自分の内以外のところに享楽をもとめない」「自分自身に付き添う」「自分自身と友誼をむすぶ」「要塞に立てこもるように自分自身に立てこもる」「自分をいたわる」「自分自身を礼拝する」「自分自身を尊敬する」等々。

あたかももはや自分自身のことに専心するよりほかない個人の隠退の、いくぶん憂鬱でもの悲しい表現のように聞こえる。
しかし反面自己への配慮は、たんなる内面性への沈潜ではないような、自己回帰の運動を伴う。それも自己は分裂するのではなくその場に留まる回帰である。自己自身へ向かう方向転換であり、自己自身の中心に立ち戻って、そこで不動化する。

人間復帰へのスタート。
さしずめ自分らだったら、我のない人間即ち人間本然の姿に立ち還る一週間の「特講」体験をイメージする箇所だ。

自己への配慮、主体への配慮、在ること自体への配慮、ここには自己への配慮を通して憂慮を配慮の方に転じていく前向きさを見る思いさえする。
そういえば山岸巳代蔵も、憂慮と配慮の明暗二道への岐路に立つ機微にふれている。

例えば〝心配する〟という言葉を採り上げてみると、〝子供の病気を心配する〟とか、〝入学を心配する〟とかといった〝気にする〟場合に使われたり〝人に心配してもらって〟というように、〝気を配って世話をする〟場合や、両方の混じった意味にとれることもある。子供の病気を心配する場合に、〝どうなるだろう〟、〝ひょっとしたら助からないかも〟とか、〝死ぬようなことになったら〟といった憂慮することが多いが、一方積極的に対策を考え、手当を講じるように配慮することこそ、本当に心配することではなかろうか。
案ずるということも、気にするばかりでなく、それこそ名案を考えるのが本当の案じ方ではなかろうか。
こうしたちょっとしたことに気づくだけでも、観方・考え方がコロッと変わることも多い。観方・考え方が変われば、することなすことも大いに変わってくる。(正解ヤマギシズム全輯を通じての前ことば)

ある日の研鑚会で、普段やっていることをすぐ当たり前のこととしてしまう当たり前観の再考がテーマに上がった。
「普段接している豚や鶏の中に素晴らしい事実があるのに見ようともしない。目が外に向いている」
「事実そのものから、もっと新鮮な驚きを。ただ感心するだけでなしに、持って生まれた感応能力を磨かないと……」
外の評価や評判や知識やうわさ話などに合わせてばかりいる自分が見えて、恥ずかしくなった。

「目が外に向いている」!?
普段の「仲良し」とか「楽しい」といったありふれた簡単な言葉に秘められている奥深さへと向かう方向転換を迫られた。

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