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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

新年にあたって

「僕らはもう一週間も輪になって座っていた。ときおり天井から吊してある白い垂れ幕が真夏の午後特有の涼風に逆らわず大きく形を崩し、そのたび輪の誰かが口を開けると、僕らは一斉に声のする方へ顔を向けるのだった。しかしそれも、輪の中心に控えている男にあっさり『もう少しや、よーく考えて見たら』という声で軽くいなされると、先ほどの誰かの発言も色合いを失いまた元の沈黙が訪れるのだった。(……)
とにかく僕らはもう一週間も男が時々くり出すテーマを切れ目なく考えてきた。それは長い間に洗練されたと思える単純で短い言葉だった。それもきまって思ってもよらない意表を突くものだから、その言葉を発した男の口と顔をまじまじと見つめざるを得なかった。しかしその後はただ男のキセルからの紫煙だけがゆらめいていた」

十八歳の頃に「特講」を受講して少し時が経ってから、あの一週間の体験はいったい何だったのだろうかと、確かめたくてノートに書きちらしたものだ。
以来半世紀「もう少しや、よーく考えて見たら」という問いかけが心に焼き付いている。その後もいろんな形で現れてくる問題についても、自分の心からの実感にかなうところまで行きつ戻りつ再三再四考え続けてきた。人に対して問うのではなく、自分に対してくり返し問うてきた。
するときまってそんな自問自答のくり返しが「底つく」と、あの「特講」体験と同じく一気に視界が開けて、それまでの自分が押し隠していた傲慢さまでが明らかになってくるのだ! 思わず「やったぁ」と心踊る瞬間だ。

反面今の社会には、本音で考えなくてもよい、単純な、損得・善悪・0と1の二分的思考や「目には目を」の反射的行為がしっかり根付いている。まさに「平和のために戦争し、神に祈って爆弾を恵む」(「知的革命私案」山岸巳代蔵)といった内在する矛盾・社会我で混乱している。また急速に「高齢社会」に入った自分らの暮らしの周囲では、介護疲れによる心中事件や殺人事件が連日報じられる切実な問題として迫ってきた。

ではこうした「パリ同時多発テロ」や「介護家族の悲劇と苦悩」などの諸問題を、自分らはどのように受け止め、どのように対処しようとしているのだろうか。

やはりあの「底ついて」通じ合うところから出発したい。自分が自分に対してものを問うやり方で、どんなことでも自分が心からそうしているという「生き方」の確立からはじめたいと思う。自分を考え、自分を改め、自分を深める。自分が変われば世界が変わる。自分の心からの行いが世界の心に響くもの。
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