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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(59)

こうしたフーコーの、
自己自身を対象とする知、しかもその自己の本来のあり方を尋ね求める「自己知」としての「汝自身を知れ」と、
自分の身体や他者、その他、外的な世界やそこに存在する様々な事物と関わりをもち関係を取り結ぶ自己に寄り添い、関係性においてその「自己」に配慮する「自己への配慮」
との根本的な異いから出発した講義は、たんなる内面性への沈潜ではない自己回帰の運動としての「自己への配慮」へと緻密に展開されていく。

しかも注目すべきは、古代ローマのストア派哲学者でローマ皇帝ネロの家庭教師としても知られたイエス・キリストとほぼ同年のセネカ(紀元前1年頃~紀元後65年)
セネカ

など後期ストア派(セネカやエピクテトスやマルクス・アウレリウス)を重視する文献からの分析・吟味に、講義録の大部が割かれているのが興味深い。

現在セネカの作品は、容易に岩波文庫などで読むことができる。なかでも『怒りについて 他一篇』(岩波文庫)を読んでいると、あの一週間の「特講」を彷彿とさせる。二千年も前から、人間の感情の動きはちっとも変わっていないことにビックリする。こんなことから改めて一週間のヤマギシズム「特講」の偉力を知らされる。

フーコーも講義録のなかで、「怒りとは何でしょう」と問い、
「つまり怒りとは我を忘れることであり、自分を統御できなくなることです」
「怒りというものが上のものが下のものに対しておこなう権力の濫用である」
と位置づけて、暗に自己への配慮の重要性をほのめかしている。

ここでフーコーが情熱的に語ろうとしているものは、たんなる古代哲学の紹介ではなかった。
それは講義とは別に、フーコーが記した「講義要旨」の末尾に引用されたセネカのルキリウスに宛てた『道徳書簡集』第二六の引用文で閉じられているところからも覗える。

「僕がどれほどの進歩を遂げたか、その決定を僕は死に任せることにしましょう。(……)その日には僕は見栄も外聞も捨てて自分について判断することになるでしょう――つまり僕は勇気のあることを口先だけで言っているのか、それとも実際にそれを感じているのか」

フーコーはこの書を心の支えとして晩年の日々を過ごした。そこまでフーコーに大転換(方向転換)を迫った「自己への配慮」に秘められてあるものとは何なんだろうか?
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