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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(11)

専業と分業(中)
 簡単なことができない?

自分らは鶏舎建設などを一体作業と呼んで、そのどこが一体なんだろうかとたえず話題にしてきた。大勢でやるからかな?、と思えた時もあるがそれは一斉作業だという。スコップで穴を掘る者、柱を運ぶ者、釘を打つ者、各自各自の持ち場に専心没頭しつつ黙々とあるいは声かけ合って創りたいものがある。それこそ理想社会づくりという一幅の絵だ。
そうした一人ひとりが適材適所にかみ合い、当てはめ当てはまり、組み立てるピースなる一片に徹したジグゾーパズルの展開に胸おどらせてきた。
誰もが当惑する全体と個の二律背反も、個々人主義の個を総合して繋ぐというやり方から生じるのであって、そのひとつ手前の本来一つのものとして繋がっている事実から出発するならば、あとは繋がりの結び目に立つ「自個」や「もの」をより良い方向へと伸ばしていくだけで、すべてがより良い方向へと向いていく循環関連性の具現だった。
しかし心すべきは、その出発点に立つことが容易でないのだ。こんな単純な論理でも実践に移した場合、日常の中ではあべこべになってしまいがちだ。どういうこと?

こんな嘘のような話を聞いたことがある。
あの3.11東日本大震災での出来事。被災者が保証金を得るためにハンコを押さねばならない。そこでの役所の人との問答。
「ハンコを出して下さい」「ハンコは津波で流されました」「ハンコがないと保証金出せません」
そのおじいさんが本物であるかどうかを、ハンコで判断しているように見えるが、そうではない。ハンコを押してくれたならば、その書類は間違いのない書類ということで、その役人の作業の真っ当さを保証されるだけだ。役人には分かっている、この人は嘘をついていないと。
「おじいさんハンコ買ってきて下さい」「いや、ハンコ買うお金ない」
今度は役人が苦しみ始める。出したいんだけど、ハンコがないので出せない。

あの未曾有の惨事であるはずがない話だ。でもまあ「お役所仕事」なら仕方ないか。
ところがしばらくしてハッとした。これって、自分らの周囲で日常的に起きている事だ!
簡単なことで、自分が腹くくって、拇印でも何でもいいから押してあげて保証金を出したら良いだけの話。これができない。まさに自分らもできないでいる!?
保証金が被災者を助けるという本来の目的とそのための手続きとがすり替わってしまう逆転現象。(「と」に立つ実践哲叢(7)参照) 
「完全専門分業社会実顕地」づくりが、いつしか「分業の人」ではなく「専業の人」(=専門バカ)を生み出す場合がある。
その時その場で最高に活かされ、それ自体が歓びであるような自分の位置=「やること」があるはず。
なのにそれをやると、勝手なことをやったと責められるのを恐れ不安がる自分がいる!?  
そんな明暗二道への岐路にある課題だ。
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