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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(64)

ここでの「修練的なもの」の特徴を、フーコーはセネカのルキリウスに宛てた『道徳書簡集』から幾つか挙げて説明している。
例えば『道徳書簡集』第十八の貧乏さの訓練がある。

「静穏なときこそ、困難な状況に立ち向かえるように準備をしなければならない」
「粗末なベッド、そでなし衣服、悪質で硬いパン……これで三日か四日のあいだ耐えてみよう。ときにはもう少しふやすのも良いだろう。遊びではなく試練なのだ」
「過酷な運命の不意打ちに負けないように、貧しさと親しくなるようにしよう。貧しさは苦痛ではないと悟ると、いっそう大きな心の安らかさを感じることができるはずだ。そしてこれがほんとうの豊かさなのだ」(塚谷肇訳)

面白いなあ。自分らの皆で順繰りに参加しあって、ふだん当たり前にしていることも見直したり互いの心境を高めあったりする各種長期研鑽会等も、セネカのいうやがての備えに重なるようだ。
自らすすんでヤマギシズム用語でいう「ボロと水でタダ働き」の場に身を置き、そこで堅い床に寝ても楽しい夢を結べるような体験をもつことで、やがての事態に動揺しなくてもよいようにと、今から手をうっておくのだ……。

山岸会養鶏法になぞらえれば、たとえばヒヨコに乾燥屑米を無制限不断給餌するのも、消化器は第一回に送りこまれた飼料に対して適応構造になるからで、二年先の別れの日を予想して今日手をうって置くことで老鶏を売った総決算の日に現れるものが、いや「感じる」ものがあるからで……。

もちろん節制生活をすることが目的でなく、備えとして役に立つからである。
またこんなことも言っている。
「激しい運動をして、すっかり空腹になり、その後で豪華な食事が並べられたテーブルの前で、食事を眺め、奴隷にこの食事を与え、自分はごくつましい食事をしてみる」

確か自分らの「振り出し寮」構想にも同じようなプログラムが組まれていたなぁ。
「入れと言われたら門に立ち、上がれと言われたら庭に立つ」心境のことだと言われても、チンプンカンプンだった。

こうした一連の具体的な自己を試練にかけるという方法・実践を通して、寒夜に滝に打たれる荒修行というよりも、自己陶冶とか自己涵養とか心境調正・自己コントロールの自由自在さを味わってきたのだとふり返る。

フーコー流に言うならば、次のようになる。
「このような試練の開かれたゲームを通して、自分自身を見きわめること、どこまで自分が進んでいるかという到達点を見定めること、そして根本的には自分が何であるかを知ることが目指されているのです」
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