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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(65)

また先のセネカが『道徳書簡集』で説く「やがての備え」についてフーコーは解読する。
前述したストア派の「修練的なもの」、
1 節制
2 省察
3 死の省察の訓練
4 未来の最悪の予期の訓練
5 良心の吟味
での「死の省察の訓練」や「未来の最悪の予期の訓練」に当てはまるだろうか。
フーコーは語る。

「ある出来事に急に襲われた人は、驚きがあまりに強く、この出来事に対する備えができていないと、無力な状態に陥ってしまう恐れがある」と。だから
「起こりうることはすべて起こるはずだと考えなくてはならない」
「必然的に起きるはずのものとして、起こりうることを自分に与えることだ」という。

どういうこと?
そういえば自分らも二十歳代の頃、研鑚会で「若い時分にこそ老蘇(老いて蘇る)の生き方をはっきり描いておくように」と諭されたことを思い出す。
その時の「そんな先のことわかるかい」と他人事にして聞き流していたツケが、今になって回ってきているようで悔やまれる。
参考までに当時の研鑽資料を紹介してみる。

若雌は老鶏の如く
『老鶏は若雌のような、若雌は老鶏の如きタイプを常に保たすこと』。これは山岸会養鶏法の増補改訂版、農業養鶏編「鶏の外観による判定について」の中の一節である。
山岸養鶏が(技術20+経営30)×精神50と、精神面を強調している意味を理解納得して、養鶏を行なっている人には、前記の一節の理が解されるであろう。そしてまた、その現われとして優れた養鶏実績を上げ、かつ家庭生活・社会生活のすべてにわたり、快適な人生を送っているはずである。
このような見方は、飛躍または牽強附会ととられるかもしれない。だが、山岸養鶏法そのものが、理想社会の縮図であることを知り、また、全体経済面の一小部分に過ぎず、社会構成の上からも一般の関心が薄く、いわば顧みられない一隅とも言える養鶏を通じてでも、社会全体を動かす始動力となろうとして行なってこそ、山岸養鶏は成功する仕組みになっていることを理解されるなれば、さきに述べたことについて得心がいくはずである。
特別講習研鑽会を受講した人や、研鑽学校に入学した人には、前述したような事柄は周知のことであろう。
だが、知った・理解しただけにとどまって、それを自分の生き方として実践に移さなければ、理念の死蔵であり、その人の人生の意義も稀薄なものになってしまうだろう。これはヤマギシズムに触れられた人すべてが、厳しく省察しなければならない点である。
見える若さだけでは
養鶏法そのものが理想社会の縮図であるなれば、養鶏法として挙げられている一つ一つのことがらを、人間及び人間社会のあり方の研鑽資料として検べ究めることが至当と思われる。この観点から『老鶏は若雌のような、若雌は老鶏の如き……』の鶏を人に当てはめ、人間のあり方として検べると、どのようなことが言えるだろうか。
『今時の若い者は』ということは、いつの時代にも言われていたらしい。また『最近の青年には若さがない』というのも、しばしば耳にすることである。特に後の例の場合は、青年が無気力・沈滞の状態にあると見え、頼りなさを感じる人が口にする言葉である。
こういう人は、青年たちが集まって話し合ったり、レクリエーションを楽しんだり、あるいは一団となって額に汗して何かの労働をしている様子を見ると『若者らしい、頼もしい』と満悦しがちである。だが、若さというものを現象面だけで判定すると、大きな誤りを犯す場合が少なくない。
ほんとうの若さとは
若さそのものは、積極的・陽的であり、自由活動的で向上進歩に繋がるものであろう。
ただこれらは心のあり方であって、言動など現象面に現われたものが積極的・活動的に見えるからといって、それが即ち若さだとするのは早計のようである。つまり、言動のもとになっているのが自己顕示欲であったり、自分さえよければよいとするような心、即ち私心、あるいは反抗心であったりするなれば、その行為行動がいかに積極的であるように見えても、それを若さの現われと見ることはできないわけである。また、仮に自己顕示・私心・反抗心等がないとしても、特定個人や固定不動の条理に従っての行動も、盲信・盲従である点において、最も若さに欠けたものといわざるを得ない。
若さを、積極的・陽的・自由活動的・向上進歩的な心のあり方と考えると、『老鶏は若雌のような、若雌は老鶏の如く……』に例えた人間の実際のあり方は、次のようなものになってくるであろう。
即ち人は生物的年令が重なってくると、とかく定着的、保守的な傾向になりやすい。だから常にそれからの脱皮に心して、いつでも、どこへでも赴き、何でもできる人であること。また、若いうちは、とかく心が動きやすく、新しいところへ行き、新しいことをやってみたいという気持ちにかられがちである。その心を自ら制御し、現象的には鈍重、保守的と見られても、自分の意志を出さないだけでなく、無我意のあり方で実践にうちこみ、自らを練成していく。
ただし、こういったあり方は一体生活・公意行のあり方によらなければ、実現不可能であることもまた事実である」(1978.12)

それでは「やがての備え」を実践するとは、どんなことなんだろう。
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コメント


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いっかん様

こちらこそ、よろしくお願いします。

佐川清和 | URL | 2016-05-07(Sat)16:10 [編集]


途中ですが、突然の投稿失礼いたしました。以前、何年か村に参画していたものです。なにげなくネットを見ていましたところ興味深いブログに出会い、投稿を思い立ちました。村を出て久しいですが、私自身ヤマギシズムの理念そのものはまちがっていないとおもっていますので、過去世界中で試みられた企てがほとんど失敗消滅するなか、ヤマギシだけはなんとか突破口をひらけないかと、そんなことを思っております。つたない文章ですが、相手をしてもいいよという方がおられればと思います。

[自分の意志を出さないだけでなく、無我意のあり方で実践にうちこみ]。年齢の問題ではないようですね。おそらく、本来のありかたに沿った生き方は周囲に影響をあたえずにはおかないだろうし、まずはそこなのだろうとおもっております・・・・

いっかん | URL | 2016-05-07(Sat)10:57 [編集]