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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

イズム実顕地づくり考(66)

フーコーはいう。

「現在から出発して未来をシミュレートするのではなく、未来全体を自分に与えて、それを現在としてシミュレートするのです」

「やがての備え」を実践するとは、「未来全体を自分に与え」ることなんだと!?
思わずニヤリとしてしまう箇所だ。
ふだん自分らが災いの原因になるものを、徹底的に取り除く「抜本塞源方式」とか「未来を含んだ完了形」とか「養鶏が目的ではない」とか「根本を究めて、そこから究明していくと早い」とか「真実の人生を見届けたら、訳なく解明出来るのです」等々と禅問答のような逆手表現で語ってきた辺りに相通じるようだ。

出来事を不可避で必然的なものとして百パーセント受けとめ・現在化するということは、全部自分の思い通りに為していくという究極の自由の世界だ!

ヤマギシ養鶏法に引きつけると
自分の思い通りに鶏を飼うことは、同時に鶏の思い通りになる「産卵自由調整法」のことだろうか。
鶏が自分の手足のように動くことをいうのだろうが、「まあ、しゃもじを持ったくらいにはなった」との山岸巳代蔵の発言もある。
以前イズム養鶏法研鑽会で、山岸巳代蔵が秋に来る台風に備えて、夏頃から鶏舎の跳ね上げ戸を時折バタン、バタンと上げ下げして、鶏たちを少しづつ異音に慣れさせていたという話を聞いた。鶏は暴風の物音に驚いて産卵を止めてしまいがちだから、そうした細やかな気遣いに感じ入ったものだ。
以前次のように記したこともある。

「民俗学の柳田国男の著作『豆の葉と太陽』に次のようなことが書かれている。
村々を歩くと、火の見やぐらが一本の杉の木で作られており、いいぐあいに二股になっているところに鉄棒を通して足がかりとしていることに気づく。最初は、よくまあ都合のいい木が見つかるものだと感心していたが、そのうち、それはわざわざ初めから計画してそう作るのだということがわかった。そこで柳田は考察する。
〝村の長老等は木の未来とともに、村の未来を予測すること、我々が明日の米を支度するごとく、三十年後の隣村の火事を発見して半鐘を打ち、かつ見舞いに行くべく、今からこの杉の木を栽えるのである”
ここには不思議な時間が流れている。初めから未来を含んだ完了形になっている。未然完了体とでもいえようか。
普通一般には死児の齢を数えるように地位や学歴や今までの立場に固執する過去完了形とか現在形、つまり今日の姿を見て一喜一憂する時間を暮らしているからか、奇異にさえ感じるのだ。しかし、いつまでも心に残るのはなぜなのだろう。
ひとつは、村全体の未来の繁栄が初めに意図されていて、その実現のために今の暮らしを用意するという着眼点の新しさにある。単に観念的理想論にとどまらず、目先のものに拘泥して手段と目的を取り違えることのないあり方を、この一挿話が語る実践から触発されるのだ。
こうした観点に立つ時、三十年先の隣村の火事を発見するために今から用意することがかつてあったように、百年後、千年後のために、今ただちに着手しなければならぬことがあるとの考え方が一気に現実味を帯びてくる」(『贈り合いの経済』所収)

こうした様々な錬成・試練などを通して、真実の認識の主体ではない正しい行動の主体であるような、そんな配慮において発見される倫理的主体としての「自己自身」が立ち現れてくるのだ!
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コメント


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現在を否定的に見るというわけでなく、現在と本来のあり方=正常・健康な姿の両方を知る考え方というか生き方になるのかなぁ。
抽象的な表現になりますが……。おいおい具体的なイメージを創っていきたいものです。

佐川清和 | URL | 2016-05-07(Sat)16:23 [編集]


考えられた未来のありかたに現在をシミュレーションするのではなく、本来のありかたを見据えることが、おのずと現在にシミュレートをもたらすとするならば、本来とはなにかという問題になるでしょう。われわれはどうしてもそこに理想形を描きがちですが、それだと大抵の場合、現在を否定的に見がちになります。将来に予想される地震津波対策と同列の考え方でよいのかどうか。「全人幸福一体社会」は本来のありかたとして異論はないが、その中身はまだよくわかっていないような気がする。

いっかん | URL | 2016-05-07(Sat)10:25 [編集]