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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(12)

専業と分業(下)
 本質的に仲良う楽しく

先のお役所の人もそれぞれ専門分業の場についている自分らも、簡単なことができないでいる!?
どんなに高い目的(夢)を掲げていても、いざ何かせねばならない時や余力を尽くすべき場合に、もっと条件を整えて先ず足下を固めてからと尻込みをし消極的になりがちだ。目的を自己の生活に日常化しない限り、自分の「先ず自分が食えて、安定してから」の殻から抜け出さない限り、カタがつかない。
そんな場面に直面するにつけ何度も思い浮かべる一節がある。

「何やる場合にでも、百姓するのでも、商売するのでも、教育でも、子供を育てる場合でも、どんな場合にでも、寝る場合にも、また食べる場合にも、或いは映画を見る場合にでも、散歩する時でも、やはり、すべてが、みんなが一つになって仲良う楽しく繁栄していく、と、この目的のために、またそういうあり方で進むこと以外にないと思うの、道はね。
ところが、これは自分ひとりでない―みんなそれだと思うんですが―ややもすると、この目先のいろいろのものに拘泥して、案外、方向が違っていって、手段を目的のように取り違えるのが、ほとんどの、現在の、現在までの世界の人達の、どうにもそういう社会が出来なかった原因だと思う。また、そういう目的に気づきながらも、また方法を知らないために、いつまででも堂々めぐりで、おんなじようなことをして、ちょっともその目的の方へ行っていないと、まあ、こういうのが実状だったと思うんですが」(ヤマギシズム社会式養鶏法について1961.4)

省みてここでの「みんなが一つになって仲良う楽しく繁栄していく」みたいな発言をどこかで小馬鹿というか他人事にしている。それより他人の穴探しの方に目がいきがちだ。
理想社会にしようと願うならば、いったいどこから手をつけたらよいのだろうか。もちろん「みんなが一つになって仲良う楽しく繁栄していく」という気持ちになっての一歩の踏み出し(実践)からはじまる。ところがその次の、そうした気持ちの「深まり」といった過程が見落とされがちなのだ!?

例えばこんなことだろうか。
先日も新聞のコラム欄に、平行棒を掴んで行き帰りするなかで脚力を回復させようとする療法士に、リハビリ中の女性は「しつこい男じゃねえ」と言いながら「帰らすくらいならいかさにゃええじゃない」と口走ったと紹介されていた。

そうなのだ。別に療法士さんはいじわるで行ったり帰ったりの無意味な行為を押しつけているわけではない。先のお役所の人と同様、正しいとされている定められたマニュアルや職務に熱心に従っているだけだ。
正しいことをしていて、どこが問題なの?

「専業の人」では深まっていかないものがある。肝心要のその人らしい気持ちの「深まり」といった味が滲み出ないのだ。だとしたら「分業の人」ってどんな人なんだろうか。 
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