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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(1)

はじまりの一節

一週間の第一回「特講」終了後に山岸巳代蔵がその参加者全員に送ったメッセージの冒頭に掲げられた一節がたまらなく好きだ。

「第一回特別講習研鑽を共にした、
わが一体の家族、なつかしの兄姉弟妹よ、
わが父・母・妻・子よ」

なぜか「わが」につづく「一体の家族」に惹かれるのだ。
「わが」と「一体の家族」の間に実感のこもらない溝を感じているからだろうか、なおさら憧れる。
実際に普段の自分らの「実顕地」という暮らしそのものが、何人何家族集まってもそれは「仲良し一家」の集まりとして仕組まれてはいる。
それにもかかわらず狭い範囲での夫婦・親子の血縁家族に、より心情のウエイトが傾きがちなのはなぜなのか? 
より自然だからか? それとも「仲良し一家」なんて空念仏以外の何ものでもないのか……。
はたして「仲良し一家」は不自然な形態なのだろうか。「わが」と「一体の家族」が溶けあい結びつく世界があるのだろうか。
そもそもわが父とは誰か、母とは誰か、妻とは誰か、子とは誰か。

まずは何からでも行きつ戻りつしながら、家族に象徴される〈性愛〉としての人の本質にまで辿りつけたらと願っている。
そしてその過程で、なぜ今〈性〉なのかが浮かび上がってきたら本望だ。
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コメント


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仕組み優先とは思いませんが、自分の弱さをサポートしてくれるものの必要性を痛感します。
ではどのような仕組み・制度をつくっていくか? 何を基準に?その適用範囲は、となっていくと、どこまでいっても尽きない訳なのですが……。

佐川清和 | URL | 2016-05-08(Sun)08:11 [編集]


どうもヤマギシというのは、仕組み優先のような気がするのですが・・・・

いっかん | URL | 2016-05-08(Sun)07:35 [編集]


平たくいったら、「甘え」が通用する社会は実現可能かどうか?
可能だとしたら、その実態は? を探ってみようとする試みです。
それと、「気が重くて話などしたくないときでもテーブルについたら明るく振る舞うべき」ではなく、テーブルについたら知らずして明るく振る舞ってしまう仕組み・環境要素も人間として見いだしていけるのではないかという趣旨ですが。

佐川清和 | URL | 2016-05-07(Sat)16:46 [編集]


愛和館の使い方

やっぱり家族というのは甘えが通用するところなんでしょう。それが通用する関係、通用しない関係。個と社会。仕組まれた「一体の家族」というのはどこかよそよそしい感じだ。となると、問題は人間関係ということになる。心身ともに一体ならば、ことさらに仕組まれた場などは必要なく、おのずと「仲良し一家」が実現するだろう。場は用意されるものでなく、自らが場となることができるかどうかということ。甘えられる関係かどうか。甘えとは、どんなふうにでも振る舞える関係とでもいえるだろうか。気が重くて話などしたくないときでもテーブルについたら明るく振る舞うべきというのでは、自然遠のいてしまいがち。「ここではこのようにします」という、仕組み先行の考え方そのものに無理があるとおもうのだが。



いっかん | URL | 2016-05-07(Sat)09:15 [編集]