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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

書評『サイロ・エフェクト』

先日新聞の広告欄で、フィナンシャル・タイムズ紙アメリカ版編集長 ジリアン・テッド著『サイロ・エフェクト 高度専門化社会の罠』(文藝春秋刊)を知った。
0001ジリアン・テッド

サイロって、あの北海道の酪農地帯に点在するタワー型の穀物サイロのことか? エフェクトは効果とか結果という意味だ。ということは、自分らが今ヤマギシ会の機関紙に連載中の『「と」に立つ実践哲叢』での「専業の人より分業の人へ」の内容と符合するなぁと直感した。
一読して、まさに自分らのことだと思いあたることばかりだった! 

現代社会が高度情報化で単一のシステムとして結びつきを強める一方、高度に複雑に細分化、孤立化した社会に対応するためには一人ひとりが精神的・肉体的にその道の専門家として自力をつけていかざるを得ない。実際真面目に打ち込んでいくと誰もが自ずと自力がついてくるものである。
養鶏に例えるならば、何十年も養鶏に専念していると、そこから影響されるもので体力・知力・実績もついてきて自信や誇りたい自惚れ欲もなぜかついてくる。
自他共に認める「養鶏人間」の誕生である。いつしか養鶏の立場や実績からモノを考え、判断するようになる。
養鶏は人生の目的でなく、手段だ。人間生活全体の一部にすぎない。それなのに養鶏のみが目的となる縦割りされた小さな狭いサイロの生き方にひっくり返る。
その結果新しい変化に対応できないパラドックスが「サイロ・エフェクト」だ。

本書は「なぜ現代の組織で働く人々はときとして、愚かとしか言いようのない集団行動をとるのか」
「なぜ本来利口なはずの人たちが、あとになってみれば自明すぎるほどのリスクやチャンスを見落とすのか」
といった根本的な疑問に答えようとする試みだ。
しかも人類学者という特異な経歴を持つ英国の経済紙の筆者は、ジャーナリストならではの直接当事者に好奇心の赴くまま「なぜ」と質問できるなかで、サイロに支配されてしまった世界各地の個人と組織のエピソードから今の社会的欠陥の最大なる共通原因をうきぼりにしていく。
読者をして身につまされるリアル感を覚えるゆえんだ。

「ソニーのたこつぼ」の事例。
1999年一世を風靡した「ウォークマン」の次世代商品は、二つの部門がそれぞれ開発した二つの商品で、しかも互換性はなかった。その後アップルのiPodに独走を許すことになる瞬間だった。
誰も気づいていなかった。コンピュータを開発する部門が音楽を扱う部門と別であることは当然だと思い込んでいた。
独立採算制を強調することで責任の明確化が計れるという発想だった。もちろん他部門への移動も、身を守るために避けた。
部門同士が協力しなくなった。部門間の壁がますます強固になった。売り上げが浸食されることを恐れたからだ。

「スイスの巨大銀行USB」の事例。
あの保守的な石橋を叩いて渡る銀行が、2008年のサブプライム危機でゴミ屑同然となったサブプライムローンをごっそり抱えて破綻寸前に追い込まれた。
リスク担当者も細分化されていて、グループ間の交流はあまりなく、情報交換もしなかった。しかも何とリスクの高低の分類システムがまるで逆さまだった!
経営トップには全体像がまったく見えていなかった。

もちろん経済学者たちも、間違えた。専門家ですら、(むしろ専門家ほど)自らをとりまく世界を堅牢なサイロによって秩序づけるあまり、何も見えなくなる。みな同じサイロの中にいた。

こうしたサイロの弊害に苦しんでいる企業は多い。サイロに囚われない方法はあるのか? その呪縛から逃れる方法は?
そうしたサイロの悪弊を逃れようとした巨大医療機関の事例は興味深い。

「病院の専門を廃止する」の事例。
アメリカ有数の規模を誇る医療機関クリーブランド・クリニックでは、患者が自らの病気を語る内容に耳を傾けたところ、身体の部位や漠然とした病名を口にすることが多かった。
医者の見方と患者の見方は違う。医者ではなく患者の側から医療を定義してみたらどうなるだろう。
そこから外科と内科を廃止したり、垣根を越えて各専門をクロスオーバーさせる試みによって革新を生んだ。

これらの事例はみな、自分らにも身に覚えがあることばかりだ。
例えば数年前に、それまでの実顕地で別棟に分けられていた「生活窓口」と「法人窓口」を廃止して、窓口を一箇所にしてみた。窓口一箇所で実顕地に住む人の要望を受けて、窓口の側で生活と法人に仕分ける業務を受けもったのである。するとどこかのお役所のようなたらい回しがなくなった! 

そして筆者は、「なぜサイロが形成されるのか」「サイロにコントロールされるのではなく、われわれ自身がサイロをコントロールするすべはあるのか」に答えようとする。 

「終章 点と点をつなげる」
専門化は不可欠だ。サイロを専門家集団と定義すれば、その存在は必然である。
だからサイロをコントロールするという戦いに終わりはない。常に進行中の作業だという。
1 交わる機会を増やす 
2 協調重視の報酬制度
3 情報の翻訳家の必要性
4 分類法の定期的な見直し
等々とサイロに囚われないための幾つかの教訓を並べる。
しかし筆者の真骨頂は、教訓を垂れるだけでお茶を濁して終わらないところにある。

それはフランスの人類学者兼社会学者であるピエール・ブルデューの研究成果を援用して一章を割いているところにみられる。
「人類学はサイロをあぶり出す」
巻末の「謝辞」で筆者自身が、本書は
「私自身がこれまでの人生で経験してきた、さまざまな『サイロ破壊の旅』の産物」
だと語っているように、かつて彼女自身がタジキスタンの小さな村に三年暮らし、生活を共にしながら結婚慣習を観察している。そこは常識観念がひっくり返る世界だ。常に「なぜそうなのか?」と疑問が湧いてくる。それは人類学の研究手法であると共に筆者自身の生き方にもなっている。そこに親しみを感じた。

しかもピエール・ブルデューといえば、本ブログでこの間ふれてきたM・フーコーの盟友だった。
こんな挿話が本書にも紹介されている。
農家の息子として生まれ育ち久しぶりに故郷のクリスマスのダンスホールで、学者になりたての頃ブルデューが見た光景があった。
ホールに集まった人たちは、どういうわけか自分たちを二つの陣営、踊る者と踊らない者に分類していた。なぜそんな区別が生じるのか、その手がかりをブルデューは数日前に、かつての級友から聞いていた。踊らない者を「結婚できないやつら」と呼んでいた。
強制力のあるルールも踊りの輪に飛び込むことを禁じる法律もないのに、なぜさっさと踊りの輪に加わらなかったのか、また女性達は男性の半分を無視していることに気づかなかったのか。そんな痛ましい光景に愛おしさすら感じたという。
そもそも人はなぜ、環境から受け継いだ分類法をそのまま受け入れるのか。
村のダンスホールの踊らない者に象徴される「社会的沈黙」によって隠されていた部分に光を当てることにこだわっていく。
人は必ずしも自らが受け継いだメンタルマップにとらわれる必要がないというのが、彼の知的探究心の出発点でもあった。

自分が日々、無意識のうちに身のまわりの世界をどのように区切っているのか、思いをめぐらしてみる。
これこそ「インサイダー兼アウトサイダー」でどこまでもあり続けたいとする本書に深みを与えている視点なのだ。
そういえば自分らも、「インサイダー兼アウトサイダー」の全体的視点に立つ独自の価値観に基づく文化を刻んできて半世紀を超える。しかしここ十年は、まさに「サイロ破壊の日々」である。
たんに「囚われない」「キメつけない」といった主観を捨てての一言で済まされないものに日々直面するからである。

そもそも「ヤマギシズム実顕地」とは、自然と人為の調和を基調としたヤマギシズム理念を顕現する場を指す。
提案創設者山岸巳代蔵の
「今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目している事にあり」(知的革命私案)
とする観方に同調共鳴した有志が数家族以上集まって、垣根や壁や囲いなど隔てるもののない理念に基づいて編み出された完全専門分業での生活様式の一つである。始まりは1961年だった。
その意味では、サイロの引き起こす「愚行」あるいは視野の狭まりを防ぐ手立ては、すでに用意されている。とっくに解決済みの案件なのだ!? 

先に筆者も記していた。
「サイロを専門家集団と定義すれば、その存在は必然である。
だからサイロをコントロールするという戦いに終わりはない。常に進行中の作業だ」

そうだと思う。しかもサイロを無くする根本は、断じて一技術や方法の末にあるものではないことを銘記しておきたい。
人間成人してからも、経験なり実績が上がっていく程たまってくる、この垢ともいうべき固定観念。こうした観念のトリコから解放されて、無心の子供心に還りたい。「万年素人の初々しさ」の世界へ。
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