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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

11 研鑚学校Ⅲが始まる

今日から二週間の研鑚学校Ⅲが始まる。今回で七年目、31回を数える。
そういえば以前次のように言う人がいた。

「ケンサン学校を斬る
竹本さんが、あるヤマギシの村人への感想を寄せてくれました。
『自分の中でぐっと来るものに焦点をあてて、その奥のものを探る手法は宗教的。
感覚的なものや実感を事実だとする進め方はまさに宗教。
現実感を事実にする根拠は、「係りが “事実ではないか” と言ったから・・・」では外のものに振り回されているだけ。
それでは宗教そのものからの感人種が出来るだけかな。
〈研鑽学校3〉の中に研鑽の実在が見当たらない。
〈研鑽学校〉に研鑽が無い、そんな思いを強くした。 
研鑽が無い〈研鑽学校〉に参加希望が多いのは?
係りも参加者も、やっぱり本質・本来を知らない、理解の浅さなるが故なのかな!』
秀逸な分析だな、と思った。
心を深く探るのは良いが、人間の考えであるとの自覚がない人が、心の奥に出会ったり、霊的な体験をすると、教祖か信者になってしまう。
ヤマギシ・心の啓発系・他の新興宗教、だいたいそんな感じかなと思う。
ヤマギシでは出会いや感動を〈研鑽〉と思っているみたいで、タチが悪い」(2009.10.01サイエンズ研究所 杉江優滋)

たしかに自分の思い込み、主観、実感ほどアテにならないものはない。「感覚的なものや実感を事実だとする進め方はまさに宗教」だと言われれば、まさにその通りかもしれない。

そのアテにならない誤りうる実感を頼りに足場にして、例えばこれからの季節、山の木々に見る紅葉をあらためてきれいだなぁと心の奥底から湧きあがってくるものに「心の琴線に触れるものがある。それはどういうものか」と美しさの正体に想いをはせるなかで、自然の一部である人間にも流れているものに気づかされ、その心から自然・永遠・事実・普遍・真理に相渉ろうというのである。

宗教と科学を分ける「と」の垣根を取り払うことで、宗教も科学となる繋がりの場所を見出そうというのである。

自然と人間は一体のもので、人間は自然から産まれたものであることを、みずからの生きた事実実証で表してみようというのである。

たかだか百年にも満たない時間を生きる人間の主観でもって、自然・永遠・事実・普遍・真理を掴むことはできない。
しかしそうした「事実その中で生きている」繋がりそのものの自己を見出すという「自己への配慮」という知恵でもってしたならば、真理即応の人間性(心)にまでひょっとしたら到達できるかもしれない!

ハッとする心躍りがあった。






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