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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(11)

個人と集団との関係

1960年代末の全共闘運動が高揚期にさしかかっていた頃、都内のある公民館で吉本隆明さんの講演会があり、その後の質疑応答で当時自分にとって一番切実に感じられていた課題を直接吉本さんにぶつけてみたことがあった。

自分 権力というものがあって、それに抵抗していく場合、それ以前にまず、自分自身の内面において、現実上の上昇志向とか出世欲とか金銭欲とかの気持ちを棄てることが第一に問われるのではないか。
吉本 そうではないだろう。それは内面律の問題として僕自身の中に、君自身の中に固有にあるもので、それだけのことだ。
そういうことを極限化すれば、必ず宗教的な幻想を生み出し自己矛盾を生むはずだ。
自分 そうでしょうか。つまり行動へ向かう動機は何でもいいということですか。
吉本 君は権力闘争の過程で実際に陰惨なことをくり返している人を、全く別人種のように考えているが、そんなことはない。一人の個人として会えば、きっと大変礼儀正しく理性的な感じを受けるにちがいない。
なぜなら、どんな組織でも集団でも、その集団がある一つの目的意識、それも厳しい原理としてもっていればいるほど、その中の個人というのは知識や理性を超えて思いがけなくちがった面を引き出されてしまうからだ。
自分 たしかに世間では鬼のようにいわれる冷血漢でも、家庭では良き夫であったり、やさしい父として心中に涙することもありますが……。
それでは、一個人が非常に自由に振る舞っても、全然他の人に迷惑をかけない集団(社会)は不可能だということですか。
吉本 人間は他の人を自分として感ずることができる、そうした人間の社会的存在の理想から、新しい人間社会は始まるだろうとは考えられる。
しかしそこへ一挙に行けるというのは短絡的だ。むしろ、個人と集団は逆な関係に何時もあるということを自覚することが先ではないかと思う。
そうすれば最低、現実上の関係から促されて形成された内面律でもって、他人を侵す行動をチェックできるのではないか。
俺はブルジョワ的でありたいと、それに対して、お前間違っているなんて言う必要がない、自分はそうしなけりゃいいんで。
自分 そうでしょうか。やっぱり、どんな過度期においても個人を制約・規律・規範ナシで、全社会のためにもなる個人の生き方、あり方があると思うし、必ず生み出せると確信するが……。

再構成してみると、以上のような問答になるだろうか。
とまれ一介の学生の問いかけを適当に軽く逸らすわけでもなく、真っ向から迫ってくるその迫力に圧倒される思いだった。
吉本さんが言われたのは、あらゆる現状を良くしようとする運動体や正しさにおいて誰もが認めるような理念を掲げて具体的に関わろうとする際に、本来社会や制度の問題に属する事柄も混同し間違って、自分の内面に「倫理」感情として受けとめてしまうが故に、他を責め裁く自己矛盾に必然陥ってしまう課題についてだった。
それから一年ぐらいして自分はヤマギシ会に参画するのだが、もう半世紀近くこの課題からはなれられないでいる。
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