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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(16)

自分がヤマギシズムになる!?

またそんな頃、自分の琴線に触れるような名状しがたい温かいものに時に癒やされつつ、当時自分の心をとらえて離さない一つの想念があった。
それは今までのヤマギシ会の運動は消え去ったとう喪失感と共に、これからは何をどのように考えても勝手だという思いの中でふと浮かんだ「自分がヤマギシズムになる」という無謀な考えだった。
むろん「そんな馬鹿な」と即座に打ち消すのだが、なぜか何度もしつこく湧いてくる想念だった。
先が全く描けない失意の底にあって、「無所有」とか「無我執」とか「一体」といううかがい知ることのできない理念と今のみじめな自分とが融け合うなんて絶対にあり得ないことだった。

でも確か千石さんは、イエスを真似するというか生活することで実感されていくものがあると言っていたなあ。「イエスの生活を真似する」って、どんなことなんだろう?
ふと、以前研鑽した「実顕地用養鶏法研鑽会資料」の一節が浮かんできた。

「その人の言う通りやろうとすることはその人になることでその人の心になることで方法のみを真似するわけではない。
一体になろうとするもので一体とは無我執である。
その通りやれるかやれないかはわからないけれど、信じないで言う人の気持ちになってやってみようとするもので、そこに考える人とやる人の一体の成果が即ち本養鶏法が顕現される。
間違いなく完璧だからその成果を期待してやるものでなく、趣旨やあり方や仕組みに賛成して養鶏する目的や経営安定度の可能性にかけるもので間違いなからんとして間違い多い過渡期も責め合いなく一体で励み向上さしていくものである。
それはヤマギシズム社会のあり方であり、そこに住む人の心情でもある」

そうなのだ。「その人の心になること」なのだ!?
じゃあ、その人の心って何?、自分ではない他人の心になぜなれるのか?、と次々と疑問が深まるばかりなのだけれども、一方でなぜか難問を解いていく糸口が見出されていくような予感もした。
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