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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(19)

無停頓の律動(リズム)

さきの「万象悉く流れ、移り行く」の一節を今少し吟味してみる。
ずっと、時間の流れとともに「今、ここ」は現象として次々と流れ消え去っていくものだと思いなしていた。
これって、先述の千石イエスのコトバ
「あなた方はね、生きてないんじゃがね、死んどるんじゃがね」(わが一体の家族考15)
の言わんとするところと重なってくる。
「今、ここ」を生きていないのだから……。
以前皆で「老いることは幸せ」というテーマで研鑽したことがある。何で年老いて先にあるものがだんだん古くなっていくのに幸せと呼べるのだろう? 今一つ釈然としない。
それが一転して、万象に滔々と流れているものがあり、それが現象として刻一刻その姿を変えながら色鮮やかに映し出されているのが「今、ここ」なんだと感受されてくる。
「今、ここ」に万象をつらぬく「こころ」を観た思いがしたのである。

「私は私達の周囲を眺め、これはまた耳かきで飯を盛る行いを随分、飽かずに、飽きながらも、毎日・毎月・毎年・時々刻々の分秒を、営々として、生命の燃焼に費し続けていることに気付きます。
私は今日まで、一九〇一年八月からの五〇年余の日々を、蚕が桑の葉を食むが如くに、悲喜交々のうちに何と多くを食い込んできたことよ。果してこれで繭が造れたか、心を休め得る立派さを重ねつつありや。否未だ蚕食の貪をなお多く求めて、野垂れ死にの日に、腐身の寸斤にても重からんことを希うや。
振り返って感ずるものは、その計画性の一小部面のみにも、蚕虫に愧ずるものがあります。彼等は、すくなくとも、彼等の多くは、節をハッキリ行っている。得たものを積み、規則正しく脱皮を、そして吸収成長の期と、整理と、後の世への生命の繁栄を、画然と区分けしています。そして絹とその他のものを残しますが、人間は何時の間に何を為したか、何時まで何を何しているのか、分からないうちにハートが休みます」(獣性より真の人間性へ2)

森羅万象は、その時その場で最高に活かされ、それ自体が歓びで、足跡を消して消え去っていくようだ。
しかしよくよく見ると、そうした流れ消え去っていくなかにくり返される「節をハッキリ行って」いく「前進一路・無停頓の律動(リズム)」こそが、現実(=事実)そのものの世界であることが知られてくる!

あの「サケの母川回帰」。
故郷の浅瀬の清い川で生まれたサケは、アラスカ湾の方まで回遊して「吸収成長の期」を過ごし、再び自分の生まれた故郷の川に帰って卵を産み、精子を恍惚と放精して「後の世への生命の繁栄」をたくす。そしてその瞬間から、死が始まり48時間ぐらいで白骨になってしまう。
サケの一生

「見事な生きざま、死にざまだなあ」。おのれの生の営みを全うしたそれはそれは穏やかな心境を観る思いがする。

いや、人間だって同じはず。
例えば子育て一つみても、忙しくとも、労れても、自分の生命を削ってでも育てるのは、契約や義務等でやれるような上ついたものでないからであろう。
そんな姿からサケの場合は「生の営みを全うしたそれはそれは穏やかな心境」が浮かび上がってくるように、人間ならではの「前進一路・無停頓の律動(リズム)」に由来する「こころ」に突き動かされての滲み出る情感のようなものが浮かび上がってくるようだ。
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