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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(20)

心の琴線に触れる

たしか「心の琴線」という言葉を最初に意識したのは、1985年4月26日付の「西日本新聞」のコラムであった。そこに毎年5月3日に開催されていたヤマギシの春まつりが紹介されていた。
散財まつり

「散財まつり」――春の風や花びらといっしょに、楽しい便りが郵便箱へ入ってくる。外国からの絵はがきや、仲間の詩集や、映画の案内状や、なかにヤマギシズム春まつりの案内がひときわ目をひいた。ことしのテーマは「散財」とある。三重県新堂駅周辺で大規模に開かれる春まつりでの店はすべてタダ、金もうけ、商売を忘れて参加されたいとうたっている。
「散財」とは奇抜なアピールだが、考えてみれば私たちはため込むことが生きがいのように働き続けてきた。お金ばかりか、土地、家、衣類、宝石、家具、本、これでもかこれでもかと取り込んで放さない。個人だけでなく、家族も、会社も、国家も血まなこで蓄え続けていく。
それを裏返せば、将来への不安や、人間社会への不信が少なからず根底にあることに気づく。
アピールは「ため込み、囲い合う生き方は自分以外のだれをも敵とし、周囲と対立する考え方から生じてくる。苦しみや不幸の芽は、すべてそこから伸び広がる」とする。だから「散財」することで、ため、囲う生き方を、放つ生き方に転換し、放つことの豊かさを味わおうと意気けん高である。
きっと、この大らかな「散財まつり」は人の心の琴線を揺するに違いない。ヤマギシズムへの賛否は別にして、個人も国家もこの提案に耳を傾けてよかろう。(T)

懐かしいなあ。毎年まつりの一ヶ月ぐらい前から会場設営などに没頭したことがよみがえってくる。
しかもこの10年は「心の琴線に触れる」とか「琴線に触れるものがある。それはどういうものか?」を問いつづけている。
自分のなかにこの辺りがより明確になると、世界は一変するのではないかという何か心当たりがあるからだ。
先日もネット『言葉のあしあと』で次のような一節に出会った。

『琴線』
「心の琴線に触れるメロディ」という表現をよく聞く。
この「琴線」、文字通り琴の糸、弦楽器の弦のことであるが、
「心の琴線」とは一体どういう意味だろうか?
「琴線」は"heartstrings"の訳であり、古代解剖学で心臓を包み支える腱(神経)と考えられたもの。
古くは「心弦」「心糸」と訳されていた。
人の心には、琴の糸のように共鳴するメカニズムが備わっていて、その糸に触れると感情を動かされると考えられていたことから、心の奥底にある、微妙で感じやすい心情を「琴線」というようになった。
また、「心の琴線に触れる」というのは、各自の心中にある弦楽器の弦・琴の糸に触れることから転じて、読者や聴き手に大きな感動や共鳴を与えるという意味で使われる。
「心の琴線」は目に見えるものではありません。
けれど「心の琴線」を感じたことはあるのではないでしょうか。
その瞬間、胸が苦しくなる、涙があふれる、言葉に詰まる…
何とも言葉で表せない感情でいっぱいになります。
それが「心の琴線に触れる」瞬間なのではないでしょうか。

なぜか自分の思いをそのまま代弁してくれているようで、嬉しくなった。
なかでも『「琴線」は"heartstrings"の訳であり、古代解剖学で心臓を包み支える腱(神経)と考えられたもの』との一節は、
さきのサケの「生の営みを全うしたそれはそれは穏やかな心境」と人の場合の『「前進一路・無停頓の律動(リズム)」に由来する「こころ」に突き動かされての滲み出る情感のようなもの』とが、同質のものであることを実証しているかのようだ!?
五感からの知覚や一般常識観念などで意識する喜怒哀楽の心とは別に、もう一つのサケなど自然全人一体に繋がる「こころ」とも呼べるものが実在するのではないか。
みずからのささやかな琴線に触れる体験に、さまざまな知見からひたすら接近を試みている日々である。
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