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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(21)

何でも二つある!

ある日の研鑚会は、理想社会を組織する原則としての「自由・平等」での平等についての「希望があるから全部そうするでなく、資格が問題」のテーマに続いて次のようなテーマで研鑽した。

「食べたいから食べるのと、食べなくともよいが食べるのと、何でも二つある」(『山岸巳代蔵全集6』所収)

エッ!?、食べたいから食べるのでしょう、と驚愕した。いったい「食べなくともよいが食べる」ってどんな世界? “武士は食わねど高楊枝”のやせ我慢の世界? それとも「清貧」の世界?
食べる資格あるかなーと問われるテーマなのだという!?

世の多くの人は皆、「食べたいから食べる」世界の一つしか知らない。そうか、それで一つしか知らない人はしんどい思いをくり返すのだなぁと、何でも二つあることを知ることの大きさを諭された。
反対か賛成か、EU離脱か残留か、有罪か無罪かといった二律背反や二項対立・対抗から統一に向かう二つでない「二つある」についてのことだ。

それにしても「何でも二つある」って、面白い味わい深い表現だなぁとつくづく思う。
そういえば、ヤマギシでいう「二つの幸福での幸福感と真の幸福」も「思い考えと事実の異い」も「失敗型と成功型」も「共同と一体の異い」も「宗教と研鑽」も「暗く見る観方と事実その中で強い自分を見いだす二つの逆の考え方」も「理念からくる観念と理に反してもよいとする観念」も「頭で考えるとこころで感じる」も皆二つあるなぁと思いあたることばかりだ。
なかでも「二つの事実」の体験は自分自身の考え方・生き方を決定づけるものだ。
こういうことだ。

1980年代ヤマギシの有精卵の増産要請が一気に高まり、暑さや産み疲れや病気に負けない頑健な消化器の鶏体造りをねらって大量の青草やモミガラや焼酎粕のような食品副産物・廃物の活用もかねた給与を始めたことがあった。
ある日の鶏や豚や牛の飼料専門研鑽会で「ヤマギシズムでは餌代が安いほど鶏が健康に育つ」と聞いたのだ。
その時は、原因と結果を逆さまにしたような表現にオカシミを感じつつ、何はともあれ、軽率にそうか安ければよいのかと、ある時単価の安い粗飼料を一度に多く給餌してみたのだ。
すると案の定、鶏を痩せさせて皆の顰蹙(ひんしゅく)をかった。
まさに「粗飼料を与えて鶏の飼養出来ない技術者は、経済環境適性試験にパス出来ないでしょう」とか「粗飼料を用いるにはそれに合う飼養法によらねばなりません」との一節がそのまま自分に突き刺さってきて打ちのめされた。
いったい自分の何が間違っていたのか?

確かによくよく観れば、例えばモミガラ一つとっても、こんな栄養もなく消化しにくい硝子繊維の固まりが餌になるとはとても思えない。
もみがら

事実食べ残しの餌を捨てる餌箱掃除で忙しくなり、しかも下痢便の鶏が続出したりでモミガラは厄介者にしか見えなかった。反面またウイスキーを製造する際の液体粕とモミガラを組み合わせて給与してやると、なぜか鶏が喜んで食べつくす事実もあった。
モミガラは食べ残す、食べないという事実に対して、よく食べる、食べ残さない、という事実もある。
このモミガラを食べさすという小さな一事に、二つの事実がある? それって、どういうこと? とても不思議なことに思えた。人生上超難問題に取り憑かれた気分がつづいた。

ともあれこうした「何でも二つある」というか「二つの事実」を知る研鑽機会や実体験が通奏低音となって、この間脳裏によぎった
「琴線に触れるような体験の先に自分らの『ヤマギシズム』が立ちあらわれてくる」
「自分がヤマギシズムになる」
「理念と自分との間に橋を架ける」
など荒唐無稽にみえたテーマに向き合えてこれたのである。
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