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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(22)

両方に橋が架かる

あの始まりの、2000年前後のまったく先が見えず誰に頼る人もなく、悩み苦しんだ、もうどうにもならなくなった途端、ふと一瞬のうちによみがえり、こみ上げてくる心の琴線に触れるものがあった。
これって、いったい何なんだろう?
それも自分の思いや考えの先に立ちあらわれたのではなく、突然一方的に思いもかけず湧き上がってきたのだ。
しかもその世界に抱擁(つつ)まれては癒やされ、温まり、元気が出た。
この感触、この感じって、いったい何なんだろうか?
よく聞かれる言葉にスポーツなどで「ため」を作るというのがある。「腰のため」とか……。自分の場合は、あの琴線に触れたときのいわく言いがたい感じを「ため」を作るというイメージに重ねてみるのだった。
すると琴線に触れるものがよりリアルなものとしてイメージされてくるのだった。自分のものとして、自分の実感として確かな手触りをともなって琴線に触れるものが捉まえられてきたのだ。

「地獄の八丁目、即極楽の八丁目
窮まる所 必ず展(ひら)ける」

ともいう。
ここでの「即」とは、今あるままでの「即ち」とか「ただちに」「今直ぐ」「その場で」の急転直下、どんでん返しを意味する。底が抜けるというか……。あの「繋がりを知る精神」(わが一体の家族考17)にタッチしたような……。
そこに今までの自分が見えだすと共に、ここに於いて「我執のない自分」を発見するのだ! 
両方に橋が架かった瞬間だった。
しかもそこから今までの自分と我執のない自分の両方に橋が架けられると、思わず展(ひら)けてくるものがあった。
「何でも二つある」から「二つの事実」に、そして「二つの心」という概念に至るまでは指呼の間であった。
このあたりについては、以前にも紹介した一文を再度記してみる。

「『人間、腹立つのが当り前』と思ってる間は、怒りすら取れなんだ。本当に真なるものが見える立場から見たら、『絶対に腹立たん立場に立てる』というところからきての究明で、怒りは取れるし、我のあった人が我が取れて楽になれる。そういう目標に立って究明せんと」(山岸巳代蔵)

山岸会の体験は私の人生の出発点であったという宗教学者・島田裕巳さんは、何冊かの自著で一週間の『特講』とりわけ「怒り研鑚」会の醍醐味の一端に触れている。

「私はしだいに、答えることばを失っていった。(略)会場の空気は重苦しいものに変わり、沈黙が続くことが多くなった。(略)
私は自分がなぜこんな目にあわなければならないのか理解に苦しんでいた。(略)しかし脱出のための糸口は、なかなか見えてこなかったのである。(略)
ところが参加者のなかに、自力で脱出口を見い出した人間がいた。(略)
彼女の発言を聞いて、体の奥からなにか暖かいものがこみ上げてくるようにさえ感じられたのである。私は解放感を味わっていた」(『イニシエーションとしての宗教学』)

こうした解放感が一個人のマイナーな閾を超えて、誰にとっても普遍性の感覚にまで至らしめたい。こうした場でしか「真に分かり合う」ことはないのだし、そこはまた自分らの生きる場所でもあるのだ、と。
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