自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(19)

自分がいる実顕地づくり(下)

かつて日本列島が石油ショック・パニックにおちいり、連日のように「地球上の資源には限りがあります。限りある資源を大切にしましょう」とテレビのCMが流れていた頃、限りある資源を大切にすると同時に限りない資源の開発にもっと力を注ぎたいといった研鑽をしたことがある。

限りない資源って何のことだろうと思ったら、それは誰の中にも無限大に潜在して、開発さえすればどんどん湧き出てくる「自発力」とでもいうべき強力なエネルギー源、それは生きる力のもと太陽エネルギーにまでさかのぼれることにビックリした。

人からいわれてやっと動き出す自分。仕組みや制度にそっているだけの自分。やらねばならんと思っているだけで手出し足出ししないでいる自分。生まれてきたから仕方なく生きているという無気力な惰性の毎日を送っている自分、等々があぶり出されてきた。
しかもこんな自分でも自発力はないのでなく、開発したりないだけのことだと思い知らされて、目からウロコ。そんな各自の自発的自由意志だけで成り立つ社会って、どんなにか素晴らしいだろうかと胸ふくらんだ。

例えば時々一体食堂愛和館での「食器洗浄」の話が持ちあがる。一応公平にという意味での当番制で運営されているが、都合で入れなくなる人も出て食器洗浄の担当者が負担に感じられてくる場合がある。メニューによっては、食器が山のようにたまってくるし、食器が欠けたり割れたりもする。
たしかに家事仕事といえどもやりたいからやるので、やりたくない時はやらなくてよいのではあるが、誰かがやらなくては進まない。その辺り各自の自発的自由意志だけで成り立つ社会ではどのようになるのだろうかと。

いろんな思いが湧いてくる。
○こんなことで頭を悩ませなくてもよいように、もっと機械化を推し進めてはどうか。
○サボる人には罰をと非難したくなる。
○一人ひとりが少しずつでも入れば、こんなふうにはならないのでは?
○このしんどい実状を、もっと全員が知るべきだ等々。

でもどこか変だなあと感じる。皆と共に暮らしをつくっていくことは本当は皆が望み・楽しいはずのことなのに……。
じつはここからが食器洗浄の例に限らず自分らの研鑽がはじまる出発点なのだ!

誰かがひょいという。「でも、今日まで遅れることはあったけど食器洗浄ができなかったという日はなかったなあ」「そういえばそうだねえ」「最後は自分がやるという人がきっといるんだろうねえ……」「そうか!」

するとそんな「ラストマン」の気配を感じてかふうっと心が温かくなる。それまで頭の片隅に隠し持つ「自分で飯食ったんだから、自分の茶碗ぐらい洗ったらよい」といった傲慢な自分に気づいて恥ずかしくなる。
そんな時だ。責め合いなく責任感も義務感も超えた世界に住む自分を発見するのは。 
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豊里運営研での一コマ。
『2期モンゴル研修生を送り出して、今』という研鑽テーマ

「当初の受入目的がどれほど達成されているのか」とか振り返る中で、「給料をもらっている研修生とタダ働きしている実顕地メンバーが一緒に暮らすのはムリがあるのでは」「実習生がやってもらうのが当り前になっているのでは」とか出て、私もそうかもな~と成り掛けた。
ら、若い人が「研修生がどうだというより、受け入れる自分たちがどうするか、かも」と発言。

 聴いて、「そうだった!」と(ひそかに)恥入った私。
世界中にこの生き方をと念いながら、条件をつけて求めていたんだな。

ここは私ならずも、研鑽会の皆にも伝わった感じ。

その後「来日当初の一か月の研修の間にも、積極的に係わっていこう。」「自分たちが目指す暮しを伝えていこう」とか「すぐには顕れなくとも2~3年と続けてみよう」と。
私の中に責め合いも義務も責任も無い世界が立ち顕れた瞬間だった。

早速、実行と家の循環コーナーを見直し、新しい研修生にゴミの出し方を分り易く伝えていこう、と始めています。
「入雛3日」と毎日、豊里ファーム2階の研修生に会いにいく人も出てきました。

sachiko | URL | 2016-10-11(Tue)17:46 [編集]