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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(39)

始まりの場所

そもそも本稿「わが一体の家族考」を思い立ったのは次のような〝憧れ〟からだった。

「一週間の第一回『特講』終了後に山岸巳代蔵がその参加者全員に送ったメッセージの冒頭に掲げられた一節がたまらなく好きだ。
『第一回特別講習研鑽を共にした、
わが一体の家族、なつかしの兄姉弟妹よ、
わが父・母・妻・子よ』
なぜか『わが』につづく『一体の家族』に惹かれるのだ。
『わが』と『一体の家族』の間に実感のこもらない溝を感じているからだろうか、なおさら憧れる」(わが一体の家族考1)

そんな〝実感のこもらない溝を感じている〟一例を自身の体験からふり返ってみる。
二十歳前後だったろうか、当時愛読していた作家・島尾敏雄の初期作品などに自分の似姿を重ねては「自分と同じような感じ方をしているなあ」と同類意識からのうれしさを覚えた記憶がある。
島尾敏雄

例えば次のようなくだりだ。
夕飯前の黄昏の原っぱで日頃思慕を寄せている少女が縄飛びに興じている。ふと少女は櫛を落とす。
それを告げた少年は櫛を遊びが終るまで持っている光栄に預るのだけれど、よごれた手で綺麗な少女の櫛を持ちつづけるのは彼女を冒涜しているみたいで自分が卑屈にみえてしようがない。そこで戻ってくるまで遊びが続いていることを願いながら、一目散に手洗い場へ駆けこむ。
が、少年が見たのは少女等が帰り仕度にかかっている光景ではないか!

「何してたの、貫ちゃん、嫌よ人の物を持って何拠かへ行っちゃ」
貫太郎は黙っていた。万年房枝の前では何も言えやしない。
「御免なさいね、万年さん」
自分でも情ない様な声を出した。
夕飯もまづかった。もう万年房枝には可愛がってもらえる事はなかろう。(『原つぱ』)

少年にも少女にも何の非はない、一笑に付されるありきたりな場面にすぎない。それなのに「夕飯もまづかった」ところまで過剰に背負い込んでしまう少年の感受の仕方がある。
人間関係で齟齬をきたすのは、今の社会では当たり前。現実とはそういうものだから、めげずに言葉で対手と渉りあい、説得・納得させればよいだけのこと。またそうした関係社会に生きるため気やものを使い合ってその関係保持に人生の大部分が占められる。

しかし、だからといって少年が少女に寄せる淡いほのぼのとした思慕まで交換条件的や報酬期待的な関係社会からの観念で侵されるのはあまりにも理不尽すぎないか。

ふり返るとこうした「夕飯の不味さ」について、自身ずっと傷つき・囚われれてきたようにも思える。自分はどこでどう思い違いしているんだろう、と。
とうとう思い悩み昂じて、どんな職業に就いたら気やものを使わなくてもよいのかと、滑稽なことを真剣に思いつめたことさえある。

関係社会の観念とその混在から、スッキリ脱却したい。いったい自分は何を見落としていたのだろうか。
「人と人との繋がり」の世界は本当はどのように構成されるべきなのだろうか。
いや本当の本当は、全現実社会を自己の感受を基点に同心円的に拡張していき「少年が少女に寄せる淡いほのぼのとした思慕」の世界のみで包み込みたいのだ?!
そこが始まりだった。
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