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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(41)

自分を解き放つ自問自答

あの「夕飯の不味さ」(『原つぱ』)に象徴される自分生来の心の体験を解き放つきっかけも、さきのヤマギシズムの祭りや秋には文化祭のようなものを準備するある日の研鑚会にあった。
普段何気なく暮らしていることの数々が、ヤマギシズムという観点から照らし出されるまたとない機会だった。
次のような一節に出会ったのだ。

「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく、今の社会的欠陥の最大なる原因は、国と国・官と民・業者と業者・団体と団体・人と人とが離れ、相反目している事にあり、政治・経済機構も大改革されますが、その何れにも相互関連があり、この条件を必ず重大要素として組織し、総親和社会への精神革命を必要とする所以です」(知的革命私案)

当たり前のことが記されていると見なしていた。ここの何が核心を衝いた表現なのだというのだろうか? その時はこの一節に込められてあるものを指摘してくれた人の真意を計りかねていた。
しかしその後も、この一節を頭の片隅で転がしながら、ふと今までの自分を、「人」は、「人と人によって生れ」、「人と人との繋がり」によらねばの一節にそのまま素直に当てはめてみようとしてみた。というか、そこまで自分自身が切羽詰まった状態に置かれていた。
自分は、父と母によって生まれ育ち、人と人との繋がりによって暮らしていく……。
つまりこの一節は、「自分」「家族」「社会」にも例えられる。
だとしたら、「夕飯もまづかった」ところまで過剰に背負い込んでしまう少年の感受の仕方のどこに思い違いがあるのだろうか。自分自身そんな感受の扱いにほとほと嫌気がさしていた。
きっと自分は、「人と人によって生れ」の延長線上にそのまま「人と人との繋がり」の世界を重ねて疑わないので、いつも傷つき「夕飯もまづかった」のではないか? 
ひょっとしたら「人と人によって生れ」の世界と「人と人との繋がり」の世界は全く次元を異にするのではないか?
きっと「人と人との繋がり」の世界へ入っていくには、それなりの「準備」というか「切り替え」というか「資格」が問われるのではないか?
かくしてひとまずは「分けてみよう」というか割り切った考え方に落ち着いた。そこで実際救われた思いがした。
多分ここまでは、誰もが無意識でやっている観念操作ではないだろうか。

でも始まりの、全現実社会を自己の感受を基点に同心円的に拡張していき「少年が少女に寄せる淡いほのぼのとした思慕」の世界のみで包み込みたいのなら、「分けてみよう」で済む話ではないのではないか?
たしかに長いものには巻かれろ式に一般社会通念を基盤とする「人と人との繋がり」に「人と人によって生れ」の自分をそのまま合わせることだってできる。皆そうして生きている! しかしそれでは、「今の社会的欠陥の最大なる原因」を除去する方向には絶対向かえないだろう。
本当に「人と人によって生れ」の延長線上から「人と人との繋がり」の世界に生きることはできないのだろうか? 

それにつけても先の「夕飯の不味さ」の比喩は、いったい何を告げ知らせようとしていたのだろう。唯一の手がかりはもっとていねいに「人と人によって生れ」の世界をたどってみるなかにあるはずだ。
ここに「人と人によって生れ」と「人と人との繋がり」との安易な妥協や野合でない理想社会に繋がる橋を架けたいのだが、そのためにももっとリアルに浮かび上がってくるまで「人と人によって生れ」の実態を明らかにしてみたい欲求が湧いてきた。
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