自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

15 「研鑽会」という場所

(承前)「人を見れば、自分と思える境地に立つことを条件とした言葉で、例えば人の子を見て、私の子同様に思えるかということです。自分の子の優秀や、栄進や進学、結婚を喜ぶに止って、他の人の子の、劣悪、失職、落第、墮落、破鏡を平気で見過し、時には内心さげすみ、あざ笑い、これに比較して我が子を誇るといった心が、微塵でもあったとしたら、如何に口で〝われ、ひとと共に〟と叫んでも、空念仏以外の何ものでもないことになります」(山岸巳代蔵)

この間ずっと『知的革命 私案(一)』の一節、「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく」に想いを巡らしてきた。

人は、「人と人によって生れ」から「人と人との繋がり」の場へ出て行くことの出来る出発点を探しあぐねているのだ。

人は漫然と自分の思い考えの延長線上に「人と人との繋がり」の世界を結びつける勘違いをしてはばからない。

それ故必然そうした「勘違い」からくる矛盾を倫理的に過剰に受けとめ自己と他者を追い詰める息苦しい思いをくり返している。

そこでいったん全く次元が異なるものとして識別・放して、あらためて結び直すための紐帯を見出す必要に迫られているのだ。

それを可能にするのが「研鑽会」という場所への跳躍なのだ。

そこで例えば芝居の登場人物を、客席から観る態度で眺め、楽しむのだ。

人は「研鑽会」という場に立つと、「繋がりそのものの自己(強いやさしい母)」から思わず湧いてくるもので、「人(男)と人(女)によって生れ」た自己が温かく抱擁(つつ)まれている、そんな自分自身への絶え間のない気遣いの親愛感に満たされるのだ!

「繋がり」の中に秘められてあるものが「あなた」と共に立ち現れてくる、そんな「研鑽会」という場所がある。
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コメント


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今、インフルエンザで

昨年の研学Ⅲに行き、幼年期の父母が寝ている間にスッと潜り込んで行った時の感じを表現したら、優しく迎えてくれる人の中の中に泳いでいるみたい気持ち良さだったんだなあ

とし | URL | 2017-04-11(Tue)17:49 [編集]