自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(42)

母親に代わるもの
ミケランジェロ デッサン「聖母と子ども」

また作家・島尾敏雄には代表作『死の棘(とげ)』という私小説がある。夫の浮気を知って神経に異常をきたした妻が、どこまでもくり返し夫を責め続けどこにも抜け道のない夫婦の凄絶な危機を真正面から克明に描き出す。もちろん男の子と女の子がいる家庭の中はメチャクチャになる。
後年、娘の島尾マヤさんの「父島尾敏雄と母ミホ」と題する回想文に接して身につまされる思いがした。

「或る晩から母の様子が突然変になった。(中略)その時から父と母はそれ迄の関係の位置が反対になってしまったことは、幼い私にもわかった。それは父が母を自分を生んでくれた母親と同じように考え、何をしても許して貰えると思い込み、我がまま勝手をしたので母は疲れ果て、心の病になったのだと後から知った。
当時の家庭の事情を父は十八年間の歳月をかけて『死の棘』という小説に書いた」(『島尾敏雄事典』)

ここに「人と人によって生れ」から「人と人との繋がり」へと相渉(わた)る際に現れる親離れできないひと見知りの典型的な思い違えが見出されるからだ。
いつもここのところで厚い壁にはね返されているような気がする。今もきっと誰もが執着の度合の差はあれ思い悩んでいる個所だ。

「何をしても許して貰えると思い込み、我がまま勝手を」受け入れて抱擁(つつ)んでくれる母親こそ「人と人によって生れ」の象徴なら、いったい「人と人との繋がり」とはどんな世界なんだろうか?
ずっとそこは、赤の他人同士で構成される「社会」の別名だと見なしてきた。だから当然、特に人と人とが離れ、相反目していることもやむを得ないのだと。自分のひと見知りを無自覚に正当化してきた嫌いがあった。  
そんな「自己一人限りとの考え」を揺さぶり続けたのは、日々の暮らしであり研鑚会である。そこでは次のような問いに迫られた。

「その人の言う通りやろうとすることはその人になることでその人の心になることはできないのだろうか」

そんな無茶な。
でもある時、ふと「その関連を知るなれば」の一節がリアルに浮き上がってきたことがある。「その関連」っていったい何のことだと自問自答するにハメになった。
今までの「自分」を捨てなけねばならない!?
山岸巳代蔵は公言してはばからない。

「結婚観のね、定義から、これはやっていかんならんと思いますわ。
私はよく言いますがね、特講なんかへ出ても、よーく言いますがね、今のねえ、結婚した夫婦だと思っておるものはね、メチャクチャのがほとんどだと、こう言えると思うんですよ」(わが一体の家族考35)

どこがメチャクチャ何だろう?
言わんとするところは、きっとそこ、「人と人との繋がり」の世界にはホントのところ、未だ誰も住んだことも生きられたこともないまっさらな未知の領域ではないのか、と。
そこはあたかも旧約聖書の時代からの、
「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2-24)ような世界なのだろうか。何の変哲もない事実にすぎないのだけれども……。

人と人との繋がりの中へ、あたかも母親の自己自身に対する愛護と同じように入り込んでいけないものだろうかと、我がままなことを夢想する。
始まりは、全現実社会を自己の感受を基点に同心円的に拡張していき「少年が少女に寄せる淡いほのぼのとした思慕」の世界のみで包み込みたいのだった。
ここの始まりの場所を離れないで、いわば「自分」と「親子の家族」と「人と人との繋がりの社会」が一つに重なる世界像に迫っていきたいのだ。
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