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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(44)

〈女好き〉〈女ったらし〉〈多情者〉

「死の棘」を映像化した小栗康平さんについて以前次のように記した。

「小栗さんは、島尾敏雄を高校生の時から自分の支えとして読んできたという。
「自分が感じていることを一つひとつ整理していくことが、とりもなおさず自分を見つけていくことであり、それは気になる人を思うこととなんら変わらない、そんなふうにもいえるような、ひどく幼い発見があっただろうことを、私はいま思い出せる」(『言葉を呑む』)
ここでの「ひどく幼い発見」の箇所は、別の稿では、
「それは、ものを考えたり、感じたりすることそのものの中に、異性、異なる性の存在がしのびいっているという発見だった。好きな女の子ができ自分の心の中で何かが動く、そのことだけはよくわかった」(『近い家族・遠い家族』)
とも表現されている。まったく同感である。
そして小栗さんはそこに流れる「恥じらいというひそやかな感覚」とか「人間としての基本的な感覚」(『近い家族・遠い家族』)の欠如の回復を、二人の心の葛藤など無関心の故郷の原風景をときおりパートカラーのようにはめ込むことで図ろうとする。そこはかとなく広がっている自然の底に息づく美しさ・豊かさ・温かさを映像化に託して描いている」(イズム実顕地づくり考48)
死の棘・呑之浦

ここで小栗康平さんも指摘される「ひどく幼い発見」は、自分も思いあたる節があるからか心をほのぼのとするものが湧き出る源泉にも例えられるだろうか。
いわば「人と人によって生れ」た自分が、「人と人との繋がり」の世界ではじめて出会う他者が、〈異性〉だという「ひどく幼い発見」と驚き。
山岸巳代蔵の次のような発言にも重ねてみたくなる。

「休む時も、遊ぶ時も、何かを探求し、仕事をする時にも、食べる時にも、心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって、満たされた思いで生気が吹きこぼれているように思う。
講演会に出ても、戯曲を見る場合も、一点の女性がないということは、冷たく潤いのない無味さを感じる。おばあちゃんか子供でも、異性が入れば生花を感じ、心はにこやかになる。なごやかになる。生き生きと仕事が出来る。
これは僕一人でないと思う。また、男の場合に限らないと思う。男嫌いで定評の女丈夫などは、最も男好きだと思う。男嫌いなどと思っていることは、変態的観念から思い違いをしているのだろう。
そういう中にも本当に相合う人を、それは無意識であっても、探し求めているのは人間の本性であり、両性に別れてある生物の希求してやまぬところであろう。
赤ん坊が乳首を求めるようなものではないだろうか」(『恋愛と結婚』の前書き)

別段ここである青春の一時期の心ときめく恋愛感情について語りたいわけではない。また生前の山岸巳代蔵に浴びせられた〈女好き〉〈女ったらし〉〈多情者〉といった風評に対しての誤解を解きたいわけでもない。

むしろ「人と人によって生れ」た自分が、「人と人との繋がり」の世界ではじめて出会う他者が〈異性〉だという「ひどく幼い発見」と驚きの真なるものを、〈女好き〉〈女ったらし〉〈多情者〉と言いたくなるものから滲み出る情感を手がかりに探ねてみようというのだ。
「心に女性を感じ、ほのぼのとした気持であることによって満たされた思い」が「人と人との繋がり」の社会の中で伸展合適していく行程を記述したいのだ。
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