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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(47)

「自個」即社会観への道のり

ずっと長い間、「人と人によって生れ」た自分が「人と人との繋がり」の世界へ相渉っていくことに異和感を覚えていた。怖かった。
そこを逃げないで立ち向かっていくには、何かとてつもなく大きな割り切りを迫られているようにも感じてきた。内と外はどうやったら親和的に結びつくのか、と。切実だった。

例えば今のようにスマホのような連絡方法がなかった学生時代、電話で在宅の有無を確認しないまま電車を乗り継ぎ友人の下宿先を訪ね、不在のためそのまま帰ったことが幾度もあった。電話が怖かったのだ? 笑い話のようだが、電話で自分の意志が相手に伝わるとはとても思えなかったのだ。〝ほとんどビョーキ〟な日々だった。

「人と人によって生れ」の自分で「人と人との繋がり」へと気楽に相渉(わた)ろうとすると手ひどく傷ついた思いに囚われていたから、「人と人との繋がり」の世界は見ず知らずの赤の他人同士のように冷たく感じられて、どうしても身構える心持にならざるを得なかったからだ。
そこで必至になって編み出した理屈は、「人と人によって生れ」た自分と「人と人との繋がり」での自分を分けてみることだった。
それは本来の自分と仮の自分という分け方だった。確かにそうしてみることで、それなりの安堵感を得ることができた。しかしそうした分け方は必然「人と人との繋がり」を避けがちな自分勝手な思いつきにすぎなかった。ちっとも楽しくはなかったからだ。それが大人になるということなんだろうか。

やりたいのは、先の〝母子系図〟の繋がりに見られた親と子の間を繋いでいるいわば親愛の情感そのまま親から離れて脱皮し、
蝉の脱皮

「個」体としての「自」分=「自個」=「人と人との繋がり」によって「自己を次代に継ぎ、永遠に生きる」ことだ!

ということは、「人と人によって生れ」の自分と「人と人との繋がり」での自分が対立的に矛盾するように感じられる分け方では、どこか無理があるというか尻すぼみに終わるにちがいない。
今の社会実態と本来と呼べる実態を混線・混同しないで分けて考えてみるには、今一つ決め手を探しあぐねていた。
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