自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(48)

瓜の蔓に茄子は生らぬ

またある日の研鑚会で次の一節を研鑽した。

「食べたいから食べるのと、食べなくともよいが食べるのと、何でも二つある」

二つあることを知る?
こういうことだろうか。
幸福に真の幸福と幸福感という二つの幸福があるように、人間の考え方にも成功型と失敗型とにも分けられる二つの逆の考え方がある。
難所に直面した時に、こんなはずでなかった、えらいことになったと、暗く見る失敗型の人と、しかしまた難関にぶつかるほど情熱と知恵が湧き出てくる成功型の人に分けられるという。
先の「人と人によって生れ」の自分と「人と人との繋がり」での自分が対立的に矛盾するように感じられる分け方には、どこか無理があるように感じられた。
ではそれ以外にどのような分けて考える考え方があるのだろうか? ここがいちばんの難所だ。

「何でも二つある」とは、何と何が二つあるのだろうか?
ことわざに「平凡な親から非凡な子は生まれないこと」の意味や、「原因のないところに結果は生じないということ」の意味のたとえとして

「瓜の蔓に茄子は生らぬ」
瓜の蔓に茄子は生らぬ

とある。
以前にも記したが、このことわざの謂わんとする一端に触れたのは、養鶏のモミガラ給餌での大失態例・「二つの事実」の気づきからである。
ある時エサ代を安く上げようとモミガラなど単価の安い粗飼料を軽率にも一度に多く給餌してみたのだ。
確かにこんな栄養もなく消化しにくい硝子繊維の固まりが餌になるとはとても思えない。事実食べ残しの餌を捨てる餌箱掃除で忙しくなり、しかも下痢便の鶏が続出したりで皆の顰蹙(ひんしゅく)をかって打ちのめされた。
ところが反面またウイスキーを製造する際の液体粕とモミガラを組み合わせて給与してやると、なぜか鶏が喜んで食べつくす事実もあった。

モミガラは食べ残す、食べないという事実に対して、よく食べる、食べ残さない、という事実もある。このモミガラを食べさすという小さな一事に、二つの事実がある? それって、どういうこと? とても不思議なことに思えた。人生上超難問題に取り憑かれた気分が続いた。
そうかぁ、モミガラがダメじゃないんだ。モミガラを食べ残すようにするには、食べ残すようなやり方をこの自分がやっているからだ。食べ残さないという事実は、食べ残さないようにするからだ。

ひょっとしたら分からないまでも、本当に真なるものの見える立場からの観方があるのではないだろうか。
そういう現状肯定でなしにそうなる元まで掘り下げられる人というか観方に立つことだ、といった発見にも似た驚きが今も続いている。

例えば、対立とか警察とか戦争とか病気など本当の世界にはあり得ないものが現象に出てくるという事実は、そういう現象が発せられる元(底)が未だ究められないでいい加減だからではなかろうか。
本当の現象は、そうなる元(底)から正常・健康な姿ではなかろうか。
瓜と茄子は、仮の現象と本当の現象として分けられる本筋的に全く次元の異なる世界の現れなのだ。
現象に出てくる前の、そうなる元(底)をそのままにしておいて、いくら現象を調えても砂上の楼閣なのだ。
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