FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(50)

なぜ今、恋愛・結婚観なのか

なぜ今ヤマギシズム社会における真の恋愛・結婚観の探求なのだろうか?
具体的な心当たりがあるわけではないが、直覚されるものがある。それはヤマギシズム理念即ち
○自然全人一体観
○無所有 共用
○無我執 放す
○全人真の幸福
○絶対愛
○心物 正常 健康 豊満
○研鑽科学生活
その他等々を顕現する場としての「実顕地」なるものの実態をもっと明らかにしたいという欲求に根ざしている。

この間実顕地づくりと称して、ヤマギシならではの独自の生活様式や学育・産業形態、組織機構や政治形態を編み出しては形にも現してきた。しかし、その考え方や内容はあまりにも今の常識からかけ離れているために、今の常識観念そのままでは到底理解されないし、不思議がられたり、怖れられたりしている。また、特定の人でしかできないかのように誤解されてもきた。
いや、そうした誤解・曲解は他人事だと思いきや、じつは実顕地の中に住む当の自分自身がひょっとしたらとんだ茶番劇をやらかしているのでは……といった疑心暗鬼の思いにかられるのだ?!
ややもすると一般社会通念や価値観の牆壁の厚さに押し潰されそうになるのだ。
例えば吉本隆明さんは、次のようなヤマギシズム〈一体〉理念への疑念を抱かれていた。

その「一体」というところでかんがえていちばん問題なのは、男女の結びつきの次元というのが共同体の次元と同一化してしまうことです。そこがものすごくきついんじゃないでしょうか。かりにそういう男女がいるとすると、かれらは絶えず共同体の水準におかれようとする力を「一体」という観念から受けているから、男女のあいだに、ささやきとか、声にしなくてもわかるとか、そういう意味の微妙さがなくなっちゃうんじゃないでしょうか。ふたりでいるんだけれども、絶えず脅かされているといいますか、全部公開されているみたいな、そういう心理状態に絶えずさらされていることになる。
もし人間の性愛のなかに、色とか、味とか、匂いとかの比喩でいうべき問題があるとすれば、それが全部、無味・無臭・無色というふうになってしまうような気がするんです。ほんとにそうなることはたぶんありえないから、絶えず解体にさらされるか、または、もし男女の結びつきがひじょうに親密になってくれば、共同体から出ちゃうという衝動をいつでも感じざるをえないみたいな、なにかそういうところでいちばん矛盾にさらされるような気がするんです。(吉本隆明『対幻想 n個の性をめぐって』1985.1春秋社)(わが一体の家族考12)

そうなのだ。一般社会通念や価値観等を引きずったまま実顕地で暮らそうとしたら、たちまち吉本さんが懸念される「矛盾にさらされる」こと必至である。この間こうした修羅葛藤の渦に巻きこまれたこといかほどあったろうか。

自分ら実顕地生活者もそうした修羅葛藤の社会出身者であるだけに、ヤマギシズムの目標や理想がはっきりしている割にはヤマギシならではの「原点」については未だ究明や見直しが進んでいないことに気づかされる。
日常衣食住の豊かさや便利さについての喜びや満足はあるが、それは比較感や自己欲望からの満足感であったりして、原点からの歓びや充足感など絶対的な歓びとの異い・識別については案外見すごされているようなのだ。
怒濤のように進撃してくる科学や技術のハイテク化・経済のグローバル化に拠る高度管理システム社会の波に翻弄されながらも、その原因・根拠がなへんにあるかつきとめ得ないまま、人間社会はこんなものだと観念づけてしまいがちな昨今であるのだろう。
自由と見えて真の自由でない、自らの手で自らを縛り、他とも又縛り合う世界への行進に、もはや現実を拓いていく力は失われている。
事態は絶望的に見える。

ところがこの間自分らが体験したのは、あの「いちばん矛盾にさらされるような」自分自身どん詰まりの生活感情に陥ったまさにそのときに、ハッと世界が一変して開かれたのだ!
そんなものがヤマギシズム社会における真の恋愛・結婚観に秘められてあるように直覚されてきたのだ。
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する