自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(21)

ヤマギシズムの醍醐味

池に氷がうっすらと張る季節がくる頃、いつも思い浮かぶ一句がある。

「凍る池 藻は青鯉の泳ぎ居り(鬼面子)」
凍る池

この句は昭和三一年一月、第一回「特講」が開催された頃、会機関紙のコラム「立卵鑽」に山岸さんが記したものらしい。要旨は―
鶏を見ればそこの家の様子がすっかりわかるとは真実である。和やかなニコニコの家かトゲトゲしい争いの家か……。なぜなら鶏はそこの家の人によって育てられているからで、子を見れば親がわかるのと同じである。
しかしそれも「見る眼」が出来ていなければ見えないので、「見る眼」は正しく見られる心が出来たか出来ぬかによって定まる。
今回の「特講」参加者の第一の獲物は、この「正しく見る眼」の出来たことであった。そして結びの一節にこの句が置かれる。

ある日の研鑚会で皆で侃々諤々この句を鑑賞し合ったことがある。
「これは見えないとアカン。考えてワカラン」
「もし辞書引くこと知らないなら、どう考えるだろう?」
「青い鯉と書いてあるから青い鯉はあるものだと、そんな見方で見たら鯉も青く見えてくるかもしれない」
「しかし辞書引いても青鯉は出てこないから、これは他に意味がありそうだ、そんなことあり得ないと考えがち」
「そのままでええんよ、考えなくてそのまま」
「やっぱり赤いものは赤いし、白いものは白いかね?」
「この俳号の鬼面子って?」
「ほら、怒り狂った眼でいると人間の顔してても鬼に見えるというじゃない。だから形よりも実質を観て下さいと……」(ちなみに後年、山岸さんは自らを未熟未熟の鈍愚生とも名付けていた)
「特にヤマギシズムでは一般にないものがある。そこを発見していくところに醍醐味があるのではなかろうか」
ここでも目からうろこだった。パーッと世界が開けた。

その後有精卵の供給活動が始まった頃、卵の黄身が白っぽいとのクレームが活用者から多く寄せられたことがある。そこで自分らは困ったことになったとみっともなく動揺した。ふだん「一個の卵に心を托す」とか「込める」と口先だけで言っているのか、それとも真実なのかを試されているのであった。
またそうした場面に直面するにつけ、あの「やっぱり赤いものは赤いし、白いものは白いかね?」の問いが迫ってきた。自分らヤマギシストは、白でもない赤でもない「真っ白な赤」を発見する日々ではなかったのかと。
本稿のタイトル〝「と」に立つ実践哲叢〟には、そんな一致とか重なるとか合わすとかの表現でイメージされてくる「仲良し」の本当の実態が込められてあるようだ。
こうした「仲良し」とか「楽しい」といつた簡単な言葉に秘められてある奥深さのようなものをもっと味わい尽くしてみたいものだ。
 
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