自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(51)

引いてしまう〈性〉の世界

またなぜ今、恋愛・結婚観なのかを問うことは、なぜ今〈性〉なのか? を問うことに繫がるはずだ。
噂に伝え聞く「血みどろの愛欲史」といった表現から退廃的な獣のしるしを連想したりして引いてしまう誤解・曲解を怖れる余り、男女の恋愛・結婚観や〈性〉にまつわる「愛情問題」に触れることを避けてきた経緯がある。
そうしてそのことが遠因となって、ヤマギシズム社会のもっとも重大要素は親愛の情によって全人類間の紐帯となすことを謳いつつ、そこから逸脱していく事態を招くことになった?!
ここに、理想社会実現への方向性を混乱させ〈性〉の世界探求への遅れをとったいちばんの要因があったのではなかろうか。

例えば1960年代アメリカで始まったとされる「フリーセックス」の風潮があった。
それまでの女性は貞淑で家に居るべきであるのような、厳格で古典的な「社会的性役割」の考え方を打破して、社会的性別(ジェンダー)に対する一般通念に囚われず、人それぞれの個性や資質に基づいて、自分の生き方を自己決定出来るようにしようという、「固定的な性役割の通念からの自由を目指す」考え方に基づいた運動だといわれる。
そうした旧来の因習に囚われず自由でありながら見ず知らずの人間同士が大きなトラブルもなく扶け合う象徴的なイベントが、1969年夏アメリカ・ニューヨーク州での40万人が集った野外ロックコンサート「ウッドストック・フェスティバル」だった。
ウッドストックコンサート

こうしたカウンターカルチャーの流れの中で1970年代の山岸会が、共同体コミューン運動として脚光を浴びたのは必然だったし、特定の相手に関係を限定しないフリーセックスという意味での短絡的な実践が集団の存立を危なくする懸念も少なからず見られた。
こうした時代文化背景なども加わって、本質的な意味での人と人との繋がりを顕現する一対の男女・夫婦というあり方への究明が遠ざけられていった。そうした自由な性愛の実現が研鑽できる環境・資格条件をその前に備えねばならないとして……。

並行してまた時代の潮流も、飛躍的な科学や技術のハイテク化・経済のグローバル化に拠る高度管理システム社会を促進していく。つまり諸個人を男女のない会社人間・仕事人間・ユニセックス人間化へと拍車をかけることにも繋がり、当の〈性〉の世界は性風俗として付属的に扱われるようになった。
今ほど理想社会づくりに現代社会紊乱(びんらん)の浄化・安定に、男女の恋愛・結婚観や〈性〉にまつわる「愛情問題」に眼をそむけずに近づきたいモチーフにかられるときはない。
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