自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(52)

理想とする〈性〉のある暮らし

一対の男女・一対の夫婦について想うとき、いつも夏目漱石の作品『門』でのお米(およね)と宗助(そうすけ)の〈性〉が顕わになる暮らしが思い浮かぶ。
夏目漱石 門

こんな二人のほのぼのした仲睦まじい描き方がいいな、いいなとずっと惹かれてきた。
物語は、冒頭の宗助が秋に日向ぼっこをしているシーンから始まる。

“宗助はさっきから縁側へ坐ぶとんを持ち出して、日当りのよさそうな所へ気楽にあぐらをかいてみたが、やがて手に持っている雑誌をほうり出すと共に、ごろりと横になった。秋日和と名のつくほどの上天気なので、往来をゆく人の下駄げたの響きが、静かな町だけに、朗らかに聞えて来る。ひじ枕をして軒から上を見上げると、きれいな空が一面に青く澄んでいる。その空が自分の寝ている縁側の、窮屈な寸法に比べて見ると、非常に広大である。たまの日曜にこうしてゆっくり空を見るだけでも、だいぶ違うなと思いながら、眉を寄せて、ぎらぎらする日をしばらく見つめていたが、眩しくなったので、今度はぐるりと寝返りをして障子のほうを向いた。障子の中では細君が裁縫をしている。
「おい、いい天気だな」と話しかけた。細君は、
「ええ」と言ったなりであった。宗助も別に話がしたいわけでもなかったと見えて、それなり黙ってしまった。しばらくすると今度は細君のほうから、
「ちっと散歩でもしていらっしゃい」と言った。しかしその時は宗助がただうんという生返事を返しただけであった。”

そしてひっそりと暮らしてきた夫婦の生活が大きく揺らいだ冬を経て、春の訪れを感じるところで物語は終わる。

“お米は障子のガラスに映るうららかな日影をすかして見て、
「ほんとうにありがたいわね。ようやくのこと春になって」と言って、晴れ晴れしい眉を張った。宗助は縁に出て長く延びた爪を切りながら、
「うん、しかしまたじき冬になるよ」と答えて、下を向いたまま鋏を動かしていた。”

何の変哲もない日常の暮らしが、かくして季節の移り行きと共に誰の心にも染みいるように掴み出される。そこがたまらないところだ。
しかしいつ崩れるかわからない怖れがある崖下の借り家に住む二人には、「大きく揺らいだ冬」があった。
じつは宗助は、かつての親友である安井の妻であるお米を得たが、その罪悪感におびえ、ひっそりと暮らさざるをえなかった。いわば社会から逃れるように暮らす夫婦の苦悩や悲哀を描写しているようにも見える。

“夫婦は世の中の日の目を見ないものが、寒さに堪えかねて、抱き合って暖を取るような具合に、お互いどうしたよりとして暮らしていた。苦しい時には、お米がいつでも宗助に、
「でもしかたがないわ」と言った。宗助はお米に、
「まあ我慢するさ」と言った。
二人の間にはあきらめとか、忍耐とかいうものが、絶えず動いていたが、未来とか希望というものの影は、ほとんどささないように見えた。彼らはあまり多く過去を語らなかった。時としては申し合わせたように、それを回避するふうさえあった。お米が時として、
「そのうちにはまたきっと好い事があってよ。そうそう悪い事ばかり続くものじゃないから」と夫を慰さめるように言う事があった。すると、宗助にはそれが、真心ある妻の口をかりて、自分を翻弄する運命の毒舌のごとくに感ぜられた。宗助はそういう場合には、なんにも答えずにただ苦笑するだけであった。お米がそれでも気がつかずに、なにか言い続けると、
「われわれは、そんないい事を予期する権利のない人間じゃないか」と思い切って投げ出してしまう。細君はようやく気がついて口をつぐんでしまう。そうして二人が黙って向き合っていると、いつのまにか、自分たちは自分たちのこしらえた、過去という暗い大きな窖の中に落ちている。”

しかしずっと社会から逃れるような生き方ゆえ齎された平穏な暮らしという当然の帰結は、矛盾しているのではないか? 
そこに自らの理想を全面的に重ねることにいつも違和感をも感じてきた。
主人公のいつも何かに脅かされているような倫理観が重苦しいのだ。
負い目を感じる主人公の倫理観と平穏な一対の〈性〉を基盤とする暮らしは切り離せないものだろうか。
本当はむしろ、そんな社会から見捨てられ・離脱することではじめて浮き彫りになるものへと転回したいのだ。

“彼らは親を捨てた。親類を捨てた。友だちを捨てた。大きく言えば一般の社会を捨てた。もしくはそれらから捨てられた。”

そういえば当の自分らヤマギシストもまた、世界中の人がみんな仲よく仕合せになるようにと願って、家財産はおろか生命までもつぎ込んで「実顕地」づくりへと参画したのだった!

今なお既成の社会通念・倫理観、価値観に胡坐(あぐら)をかいたまま
「世にあるユートピア思想で家族の共同性を解決しようとした試みはすべて、かえって社会的な弱者、子どもや女性の不幸、つまり家族の解体に至るということに帰結したからです。それがヤマギシ会という悲劇の本質と言っても過言ではありません」(『わたしはこんな本を作ってきた』小川哲生 )
とふてぶてしく居直る迂闊者も見られるが……。

いずれが正か逆か? これはわかる人にはわかる。わからぬ人にはわからぬ。
ともあれかつてない新しい倫理がきっとあるはずなのだ。
私を生み、育み、注ぎ込まれたものが活かされんことを……。
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