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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(53)

禅問答式に托されているもの

さきのいつも何かに脅かされているような倫理観に悩まされている作品『門』の主人公・宗介は、とうとう鎌倉の禅寺へ泊まり込んで座禅を試みる。
禅問答

そこで老師から公案が出る。

「父母未生以前の本来の面目如何」

父と母すらまだ生まれていない自分って、どこにいるんだ、自分って何なんだ? ということだろうか。
彼は考えに考えた。しかし自分の考えをもって老師の前に出るのだが、「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければだめだ」と撥ね返される。「そのくらいのことは少し学問をしたものなら誰でも言える」と。

“宗助は喪家の犬のごとく室中を退いた。後ろに鈴を振る音が烈はげしく響いた。”

結局のところ宗介の心を乱している心配事は何一つ解決しないまま十日前にくぐった山門を出た。
家の敷居をまたいだ宗介は、髭は伸び顔は青く出る前よりも面やつれしていた。見かねたお米も、行かない前よりかえって健康が悪くなったらしいとは、気の毒で露骨に話しにくく、
「いくら保養でも、家へ帰ると、少しは気疲れが出るものよ。けれどもあなたはあんまりじじむさいわ。後生だから一休みしたらお湯に行って、頭を刈って髭を剃って来てちょうだい」と気づかう。
ところがナント留守中に宗介の心を乱していた心配事が解けていた?!

“彼の頭をかすめんとした雨雲は、かろうじて、頭に触れずに過ぎたらしかった。けれども、これに似た不安はこれから先何度でも、いろいろな程度において、繰り返さなければ済まないような虫の知らせがどこかにあった。それを繰り返させるのは天の事であった。それを逃げて回るのは宗助の事であった。”

とようやく春めいてきたにも関わらず
「うん、しかしまたじき冬になるよ」
と宗介の倫理観が言わしめるところで作品を終える。

こうしたいつまでも悩み続ける宗介の倫理観は、現代人にも生きつづける倫理でもあるにちがいない。
またヤマギシズムの「特講」でも、掴まえどころなく気持を表そうとして表せぬものに対し、禅問答式が使われている。そういうものでしか、それをひとに通じさすすべがないのだ。
その伝でいくと「父母未生以前の本来の面目如何」という公案はどのようにして解かれるのだろうか。
自然と人為の調和を基調とした思想ではどうなるのだろう。とても興味深い。

ちなみに山岸巳代蔵は次のような意味あいで「倫理」についても触れている。
○私の倫理「親は飽くまで、子に資するもの」
○私の社会倫理「自己より発し、自己に返る(還る)」
ここでの「私の倫理」とか「私の社会倫理」という言葉で何を言い表そうとしているのだろうか?
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