FC2ブログ

自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(54)

初心に込められてあるもの

ヤマギシ会の第一回「特講」開催にさかのぼる二年前の1954年1月の全国愛農会に向けての寄稿文やその頃『山岸式養鶏会会報』に掲載された「獣性より真の人間性へ」等での山岸巳代蔵の発言は、新しい社会づくりへと一歩踏み出した高揚感に包まれて〝本質的なものこそ本当のもの〟といった気迫みなぎる心のこもった言葉に満ちている。
例えば全国愛農会に向けての寄稿文では、

“私は当日も申しました如く、古今を通じて最大の欲張りを以て任ずるものであります。またかくあらんことを欲するもので、人生ある限り、百万年の生命、無限の存在を確信し、日常茶飯事にも永遠に大きく生きんことを心するものであります。
私は拙い私の養鶏寸話を、一億円のお土産と、自ら勿体付けました。しかし決して誇張する意味でなく、現実、当座の一億円であって、種子一億円を持参し、これを各地方地方へお持ち帰り下さって、皆様方の尊い御手によって地に下ろし、御愛育願い、同心の方々に広く御分讓下さって、一粒万倍に、地上に花を咲かせ、穫って、もって実を心身の糧にして頂くことを念願するものであります。”

と自らを「古今を通じて最大の欲張り」とか「永遠に大きく生きん」と位置づけ、自身編み出した養鶏法を「一億円のお土産」にも例える。何を言わんとしているのだろう?
こういうことだろうか。

ヤマギシ養鶏法を実施することで、1反歩6俵の実績の田で7俵収穫は立証済で、今日本の米不足一千万石を解決する。しかもこれは土地を広げたり労働力を加重せずに正味の増産で、一千億円浮かすことになる。そこから割り出された「一億円のお土産」なのだ!
かくして鶏卵肉と米麦などの増産で、全国民が飽食し、なお余りが生じてくる。
しかしよく産み、よく穫れ、よく儲かっても、それでよいとしない。本当の養鶏とは、永遠を希う大欲養鶏なのだ。増産・増収が目的でなく、よい社会を造る手段なのだと、底ついて底抜けるところまで行こうというのだ。

“働かずして卵肉が無限に生産され、空気や水に近い状態で用いられる仕掛けを唱導するのです。全国的に柿が豊作なれば、誰も隣の柿に目を付けない。播いた種が稔って、開いた口中へ落ちる、〝自己より発し、自己に返る(還る)〟仕組みを推奨致したいのです。”

あたかも織物の強さは縦の繋りのみではない、横も同じように強い連繋を持たねば役立たないように、お互いの終極の目的、幸いに満ちた世界の実現も「永遠に生きる私」という縦の繋がりと「社会」という横の繋がりによって織り上げられるべきものだと……。
これがなされなくては何の革命ぞ、とかけるものがあった。
また「獣性より真の人間性へ」では、養鶏法を通してのヤマギシ会会活動の実態を

“今や地軸を動かす事態が発生しつつあるのであります。”

と突拍子もない比喩表現から始める。
なかでも〝耳かきで飯を盛る〟という絶妙な例えでもって、題名の〝真の人間性〟を浮かび上がらせていく。
筆者は蚕の国を覗いて、

“食べて、子を次代に引き継ぐのみなれば、蚕の繭に、何を以て竝ぶべき。”

と省みる。

“彼等は、すくなくとも、彼等の多くは、節をハッキリ行っている。得たものを積み、規則正しく脱皮を、そして吸収成長の期と、整理と、後の世への生命の繁栄を、画然と区分けしています。そして絹とその他のものを残しますが、人間は何時の間に何を為したか、何時まで何を何しているのか、分からないうちにハートが休みます。”
カイコの一生

“蚕虫に愧ずるものがあります。”
“人間には虫魚禽獣の持っているものと、少しは異なったものを具えていることを認めています。が、それを用いることを成さず、また持っていることさえも知らずに唯、蚕にも及ばぬ行いに終るとは、愚かしき限りであると思うものです。”
“私は私達の周囲を眺め、これはまた耳かきで飯を盛る行いを随分、飽かずに、飽きながらも、毎日・毎月・毎年・時々刻々の分秒を、営々として、生命の燃焼に費し続けていることに”

気付かされる。
あらためて〝世紀の恥辱〟とか〝愧ずる〟とか〝愚かしき限り〟とか〝飽かずに、飽きながらも〟といった語句をたたみ込むように突きつけられると、とても他人事とは思えず暗然として言葉を失う。
その一方で平然と落ち着いておられない気がしてきて、では自分のどこが愚かでその原因・根拠がなへんにあるかを突きとめたい意欲も湧いてくる。
すると焚きつけられるように「よーしやるぞ!」といった気持がかき立てられてくるのが不思議だ。
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する