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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

「と」に立つ実践哲叢(22)

ふとした心の転換から

今もスペインのサグラダ・ファミリア教会でガウディの遺志を継ぐ彫刻家・外尾悦郎さんのことが以前新聞で紹介されていた。石を彫りたい自分に気づいて、若き日偶然スペインで石の教会の工事現場に飛び込んで以来、今日までやってこれた理由に、ふとした心の転換があったからだという。
サグラダ・ファミリア教会

それはガウディに近づこうとするのではなく、ガウディと同じ視点で見ることこそ必要なんだ、と気づいたとき、ガウディが自分の中にいて、同時に、ガウディの中に自分がいるという感覚が芽生えたというのだ!
あ、これだ。こんな感じかなあ、と思わずうれしくなった。自分にも思いあたる節があったからだ。

久しぶりに入学したヤマギシズム研鑽学校でのことだ。
ボードに記されたある日のテーマ「無我執研鑽」についてのくだりの一言、「異い」の文字をじっと眺めていたとき、そうだ自分がヤマギシズムになったらいいんだ! という思いがふと湧いた。
でもその直後、そんなバカな! と即座に打ち消す自分がいた。だって我執の塊のような自分がヤマギシズムそのものになれるなんて金輪際あり得ないからだ。その慌てっぷりといったら、思い出すたびにおかしくてたまらない。

がしかしそれで話は終わらなかった。研鑽学校を終えてからも、なぜか我執っぽくない心の琴線に触れるような名状し難い温かいものが何度も湧いてきては、そのものに癒やされている自分がいた。

あれっ、この繰り返し湧いてくる温かいものって何なんだろう? 不思議と疑問が深まるばかりなのだけれども、一方で「自分がヤマギシズムになる」という突拍子もない思いを解いていく糸口がそこから見いだされていくような予感もあった。

たしかに「無所有」とか「無我執」とか「一体」といううかがい知ることのできない理念と今のみじめな自分とが一つに溶け合えるなんて絶対にあり得ない。でも何処かにきっとあるはずだ、と心が奮い立った。
糸口は先の外尾さんの「ガウディに近づこうとするのではなく、ガウディと同じ視点で見ることこそ必要なんだ」といった気づきにあった。
我執っぽい自分の思いや考えから近づこうとするのではなく、ガウディと同じ視点(=位置)に立つというか、ガウディが込めた思い(=心)になることにあった?

自分の思いや考えでは正しく相手の心情を推し量れないが、「その人の心と一つになる」ことはできるかもしれない。これまた目からうろこの大発見だった。するとあの「我執の塊のような自分」などを後生大事に持ち続けなくてもいいんだ、という突き上げるような歓びが実感されてきた。
個々別々に離れてお互い対立し合う自己のことを唯一の自分であるかのように固く思い込んできた。
でもこの間自分らは「と」に立つ実践を通して、一体観に立って見るとこんなにも仲良くなれることを実感するのだ。
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