自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(55)

あなたまかせの生活史

また「獣性より真の人間性へ」では、次のような一文が続く。

“一日、或る人家の軒下を流れとどまる下水溝に、黒く細長い、蛭(ひる)にも蚯蚓(みみず)にも、八ツ目うなぎにさえも持たない、熾烈な悪寒を覚える醜体の、一匹の虫のうごめきを見ました。
青年時、庭先でこれによく似た、頭部が銀杏の葉のような形に拡がった、黒い虫(コウガイビル?―引用者注)
コウガイビル

を初めて見た時、慄然(りつぜん)とした印象が今なお蘇りますが、こういうものを見ると逃げ出したくなり、目につかねばよかったのに、また何故あんな虫がこの世に置いてあるのか、そして何を楽しみに生きているのかと、時々思い出して暫し耽ることがあり、何時水気がなくなり干乾しになるか、どんな劇薬や苦いもの、酸いもの、辛いもの等が流れて来るか、熱湯をかけられるか、不安の日夜をのたうって、三日がかりで漸くにして遡上したものを、一夜の水にどこまで流されるやら、あなたまかせの生活史です。今日はうどんの煮汁か米とぎ水か、魚の臓物の饗宴にありつけるかと、あわれうたかたに望みをつなぐ生涯でしょう。しかし、また案外数少ないであろう彼等にも、配偶者に会う仕組みは、うまく与えられてあるのか、種の絶滅もなきまま、こうして産み付けられた吾が身の不運をかこっているかどうか、詮索したくなります。人間の誰かと引き較べて。”

孤独死、介護殺人・介護心中、老齢の母親と寝たきりの息子の餓死といった痛ましいニュースが日常的に流れる昨今にあって、「あなたまかせの生活史」とか「あわれうたかたに望みをつなぐ生涯」といった語句に出会うと、何だかダイレクトに自分自身を指された気持になる。
しかも同時に、そうした絶望的なアテにならない状況のなかでも「配偶者に会う仕組みはうまく与えられてあるのか、種の絶滅もなきまま」今日に至っているといったくだりに辿りつくと、なぜかホッと救われるような一条の明るさのようなものを感じるのは自分だけだろうか。
よくよく見れば、いつも何か着て、何か食べて生きてきた。そんな物心共に受けるばかりの暮らしに気づかされる。「うまく与えられてある」恩恵にただ一方的に浴するばかりの存在だからだろうか。『山岸会養鶏法』の一節に、

“金も名も求めず、各自の身に合う仕事で世界中に踊り、天地に愧じない連中には、至る処家在り、食有り、友、吾が子ありです”

とあるが、なるほど受けるばかりなのに「天地に愧じない」とはこういう実態なのかと知らされる思いがする。
金を求めない実態はもちろんのこと、育ててから消えるといった名を求めない範疇にまで分け入らないと、あなたまかせの「うまく与えられてある」恩恵との帳尻が合わないというのだ?! 

すべて芝居であり、遊びであり、生きている間の慰みで、楽しい一つの踊りに過ぎないのだから……。
こうした文脈にそってあらためて
○私の倫理「親は飽くまで、子に資するもの」
○私の社会倫理「自己より発し、自己に還る」
を問うてみたいのだ。
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