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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(56)

自分が切実に欲求するもの

思いかえせば、この間〈倫理〉について同じことを何度も繰り返し繰り返し書きつけてきた。
というか今なお人間倫理即ち倫理が生まれる始まりについて問うことは、もっとも本質的でリアルで切実なテーマとして自らに迫ってくるのだ。
手元の辞書には、〈倫理〉とは「人として守り行うべき道。善悪・正邪の判断において普遍的な規準となるもの。道徳。モラル。」とある。
道程

もっとも今の睨み合い・奪い合い・殺し合いのとどまるところを知らない時代の潮流のなかでは、
「いまさら倫理なんて意味ないし実感もないヨ」
「この世の悪の裏も表も露骨に現れ出る修羅葛藤の日々のどこに倫理なんて問える?」
と逆に言い返されそうだ。
例えば山岸会会旨「われ、ひとと共に繁栄せん」などはちゃんちゃらおかしい色あせた死語となっている!
自分らはそんな倫理なんて問わなくても良い刹那(せつな)の世界に住んでいるのかもしれない。
自分の場合〈倫理〉という言葉が最初に意識されたのは次のような場面であった。

1960年代後半の学生時代、
「権力を無くするとか抗するとかいうばあい、最低自らの中に対立感とか怒りなどの感情の払拭が条件になるのでは……?」
とその頃いちばん思い悩んでいた問いを、今は亡き吉本隆明さんにぶつけたことがある。
するとしばらく考え込まれていた氏は

「いや、それはあなた個人の内面を律する倫理であって、それと国家権力とか制度を無くすることとは一切関係ない」
とその件に関しては自分もとことん考えてきた末の結論だといった確信に満ちた口調で喝破された。

びっくりした。なぜ関係ないのだろう? 
自分が托する倫理的行為のさきに「理想社会」は描けないのだという?!

その後、自分は山岸会に参画したのだが、その時の驚きや疑問となぜ自身のヤマギシズム実顕地づくりなのかという問いとが、事あるごとに切実に降りかかってくる場面に遭遇してきた。これを解かずには自分は一歩も進めないのだという思いにも囚われた。
とまれ「個人の主観性の場所」から「私の倫理」「私の社会倫理」へと掘り下げる道程を今一度辿ってみることにする。
分からないことだらけの中でせめて人間が幸福に暮らせる根元的要素を探り当て、自らの心身の糧にしていきたいのだ。
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