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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(57)

「迷える羊の群れ」の行き末

当初自分らの多くは、無自覚のまま一般社会通念や価値観等を引きずって実顕地で暮らしていた。だからその外形や建物を実顕地と考えていたり、集団で生活しているのを実顕地と思ったりもしてきた。

すると例えばイズム運動の理念〝全人幸福親愛社会の実現〟を前にすると、自分の好みや身近に感じられる家族等の事柄を重要でない二義的な問題と見なしがちであるのだ?
要は我慢してしまうのだ。自分で自分のフトした思いまでも抑えてしまいがちなのだ。
つまり〝全人幸福親愛社会の実現〟という理念を前にして、運営の任にある者は全体のこととして、各自は自分自身のこととして事に当たるわけなのだが、各自の身の処し方がぼんやりしたままなのだ!
まさに「迷える羊の群れ」だった。
迷える羊の群れ

どうしても一般道徳価値観的な立ち振る舞いを引きずってしまうのだ。

例えば自分の場合、1970年代後半会の機関紙『けんさん』に〝ある愛の詩〟と題した長文の原稿を投稿したことがある。内容は、実顕地に参画してはじめて自分にとって素晴らしい女性に出会えたという、そんな「いい目にあった、いい思いをした」という体験を綴ったものだ。
するとある時、たまたま風呂への行き帰りのすれ違いざまに当時実顕地造成担当の杉本さんから「佐川節をきかせてもらったよ」とニッコリ声かけられたことがあった。
びくっとした。
というのも当時実顕地全体が有精卵の増産態勢の方へ力強く盛り上がりつつあった時期だったので、自分にはそんなマイナーで軟弱な私的な世界に入り込んでいる自分が否定されているように勝手に受けとったのだ。おかしな抑制作用が働いたのか、それ以降そんな自分の「ぬるま湯的」生き方を自己批判し意識して封印するようになった。
亡くなるまで吉本さんが懸念されていた「制度の問題を、倫理の問題に転嫁してしまう」矛盾にさらされる一例だ。

晩年の吉本さんは画一的な〝善意の押しつけ〟の体験例をヤマギシ会がいちばんの模範になっているとして語る。
“僕は入院していてもそういうことを感じました。宿直の女性看護師さんなんか、僕がトイレへ行ってちょっと音をさせると起きてきて、「大丈夫ですか」、「転ばなかったですか」と言いながら、カーテンを開けて声をかけてくれる。「大丈夫です、どうぞ寝てください」と言うと出ていくわけですが、それが僕にはだんだんうるさくなってくる。うるさいな、もっと空間を広げないといけないなと思うようになってくる。
そうしたらどうすればいいのか。それこそ、その配慮が難しい。向こうは職務に忠実であり善意であることは確かですから、「いいから寝ていてくれ」と言いつつ自分の自由空間を広げることができるかといったら、ちょっと難しい。やはりためらいがあって、きついことは言えないです。向こうは善意でやってくれているし、職務で忠実にやってくれているのだから、これ以上何か言ったら「ぜいたくだ、あいつは」となるから言えない。”(『時代病』2005年刊行)

病院の中ではお医者さんや看護師さんと患者とは、食い違いお互いが離れている。そこでは管理する方が楽になるために、被管理者(患者―引用者注)の人間力を殺してしまっているのだという。
そこで考え抜いた吉本さんなりの処方箋は、「人間の倫理性とは無関係に」被管理者の利害や事情を第一義的に考える管理制度に切り替える以外に方途はないというのだ。

これこそ現代社会が直面している医療や介護問題の核心なのだが、早とちりされてまるでヤマギシ会という〝カルト村〟(?)特有の問題なのだと誤解を招きがちだ。普通に人と人とが離れ、相反目している個々人主義の日常では却って目立たなくなっているにすぎない。

群れの中に山羊を混ぜておくと山羊が率先して川を渡るため、羊はそれにつられて川を渡るそうだ。
個像でなく群像としての羊の群れを描こうとするとき、そんな従来の倫理に囚われない山羊とめん羊のかくも徹底した役割分担のかつてない人間倫理を基調にした社会像が問われているのかもしれない。
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