自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(58)

次元の転換の〝一瞬〟

ヤマギシズム運動の先人、安井登一さんは八十歳をすぎて『山岸巳代蔵伝草稿』を書き綴けることに生き甲斐を感じておられた。
安井登一

後年自分らも山岸巳代蔵全集刊行の際、大いに参考にさせてもらったことがある。
その中に次のような逸話が記されている。
安井さんが会の本部事務局総務として活躍されていた1958(昭和33)年頃、〝百万羽構想〟が発表されて各地方の熱心な支部世話係が祖先伝来の土地家屋までも売り払って現在の三重県・春日山へ次々集結しだして、会の支部組織がメチャクチャになった。そんな会員達からの批判の矢面に立たされた安井さんは困り果て、集結場所の三重県四日市へ出かけて山岸巳代蔵に窮状を訴えた。

“山岸はニッコリ笑い乍らきいていたが、ややあって静に口を開き、
「安井さん、物事は暗く見るとそればかりが見えてますます暗くなる。やることなすことみなマイナスになっていく。あなたが『どうも分からん』という言葉さえ、あなた自身とあなたの周囲までも暗くしていくから慎重に発言して欲しいね。
こうなったという事実を認めても自分で裁くのはどうもね。
本当は良いか悪いか分からんのやから、自分も責めない、人も責めないでその中で生きていく強い自分になることやね。そこから明るい豊かな世界が開けるのよ」
聴いていた私のもやもやが一瞬からりとはれて「ああ成るほどなあ」とじっと山岸の目を見つめた。山岸はポンと私の肩を叩いて、
「あるものが見える人、見えない人。無いのに見える人、見えない人。いろいろあるわね」
私は即座に参画を決意し、直ちに家に帰り、家族会議の反対を押し切って山林を処分して資金を携えて百万羽に出資して参画した。”

よくぞ、即座に参画を決意する、その次元の転換の〝一瞬〟をあざやかに記録にとどめ置いてくれたものだ。貴重な研鑽資料ありがとう。
ところが、
翌昭和34年所謂「山岸会事件」で逮捕された安井さんの津拘置所からの次のような発言が残っている。

“私は最初に急革の方法の一部を知って不安を持っていたが、今回の事件を通じて、これが誇大妄想狂的な間違った方法であるとの確信を得ることができた。
あの方法では理想社会の実現は不可能と思われる。”(『快適新聞』昭和三十四年九月発行)

自分らの意志をもってやったことが「誇大妄想狂的」だったのだろうか? 理想を目指してのたぎる情熱からのあらわれが度を過ぎたからであろうか?
観念動物と称される人間特有の「観念習性」からの逆説なのだろうか。
あの当時「Xマン」「Z革命」などの流行語と共に日本列島を揺るがせた渦中にあって無理からぬ発言だったのだろうか。

だがしばらくして事件の余波も収まった翌昭和三十五年七月、安井さんは直接山岸巳代蔵に今一度さきの「山岸会事件」での真意を「どうも分からない、疑問だ」として問いただす。

安井 あの時、人を殺さねばならなかった、その理が分からぬ。
山岸 今度揃った時、ゆっくりやろうよ。あのこと一つ一つ採り上げんでも、他のことも含めて。自分の買ったマッチで家を焼くこともあるし、言い逃れでなしに、理も現象もゆっくり時間をかけて。
安井 あれが私の最もひっかかりの問題になってる。
山岸 あれ自身もやけど、その真相が違う。「あれをいけない、どうだ」と暗く見ないで。
安井 一時は決めてて苦しかったが、今は決めてないので、詳しく理を検べたい。他のことはずいぶん言われて出したが、あれだけは同志一人でも傷つけたくないので言わなかった。
山岸 真相、事実を零位に立って検べることだと思う。
安井 原因は分かるが、そうなったことに、私自身なぜもっと積極的努力をしなかったかと後悔してる。
山岸 焦点の真相を知らんと思う。
安井 そういうものもあれば、聴いてスッキリしたい。
山岸 聴ける法廷があれば出して、「なるほど、なるほど」となるのよ。永々と時間をかけて下手に解釈したら、無実の罪証が成り立つことになるかと思うが、それを徹底的に真相を洗ってみたら、僕はないものと思う。おそらくは各々の観方をしてると思う。洗ったら、「ああそうだったんか」というものが出ると思う。”(第一回ヤマギシズム理念徹底研鑽会)

動物の中の人間は本能以外にその特質として〝観念の動物〟と云ってよいくらい観念に左右され影響されて生きている。観念によって不幸にも幸にもなれる。そこから昔からの風俗、習慣、道徳その他、その他の観念による考え方の見直しや観念転換といった観念の特質を知った上での人間知能の用い方の是非が問われてくる所以であろう。
だとしたら観念面を正すとは具体的にどういうことだろうか?
ここでの安井さんと山岸巳代蔵の問答の中に、人間観念の取り得る二面性というか二通りの人間知能の用い方が象徴的によくあらわれているとふり返ってみて思う。
安井さんというか今も自分らにとってなじみがある「どうも分からない、疑問だ」とする〈問いの型〉と山岸巳代蔵の「真相、事実を零位に立って検べることだと思う」とする〈応えの型〉がかみ合わない二面性である。

この一致しない〝ズレ〟のなかに、今なお世界中でくり返される〝不幸の原因〟を見る思いがする。
この問答から心ならずも浮かび上がる秘められた〝ズレ〟こそ、もっともっと徹底的にひらき吟味すべき個所なのだ。ここの一番肝心な部分が未だイメージされないまま閉ざされ見すごされているのだ!
「平和のために戦争し、神に祈って爆弾を恵む」(知的革命私案)愚行・蛮行が世界的に容認され続け日常的にくり広げられている所以なのである。

“こうなったという事実を認めても自分で裁くのはどうもね。
本当は良いか悪いか分からんのやから、自分も責めない、人も責めないでその中で生きていく強い自分になることやね。そこから明るい豊かな世界が開けるのよ”

あらためて安井さんの「どうも分からない、疑問だ」といった一般社会常識観・価値観の次元から即断即決の参画への〈転換〉に思いをめぐらしてみた。
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する