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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

 「と」に立つ実践哲叢(23)

 “奇跡の村”のときめき

先頃刊行された辻秀雄さんの『半世紀を超えてなお息吹くヤマギシの村―そこには何の心配もない暮らしがあった』(牧野出版)の本の帯のキャッチコピーに「ここは、本当に“奇跡の村”なのか」とあった。
奇跡の村

えっ!奇跡の村?、大げさだなぁ……と思いつつ、何かが突然呼び覚まされるような衝撃を感じた。
ひょっとしたら本当はそうなのかもしれない。“奇跡の村”ってまんざら根拠のない話ではないのではないか? 日々の暮らしのここにもあそこにも奇跡が顕在しているではないか。そんなふうに想いを馳せると胸がときめいてくる。
例えば以前「週に一度ぐらいは各家庭でも食事ができるように、村の一体食堂“愛和館”に休館日を設けたい」といった提案が研鑽されたことがあった。

研鑚会ではもちろん各家庭での食事云々はとがめる何ものもないのだが、それと共に「常夜灯」としての一体食堂“愛和館”の存在価値について皆で研鑽できたことが今も心に焼き付いている。いつも身近に感じられて自分らの歩む道を照らしてくれるような道しるべとしての「常夜灯」についてだ。そんな「常夜灯」の灯明と年中無休の一体食堂“愛和館”が重なってきたのだった。
常夜灯

その頃か、どうも皆となじめなく沈んだ気分のまま一体食堂“愛和館”へ普段よりも早めの時間帯に行ったことがある。すると“愛和館”の光景が一斉に自分の心の中へ飛び込んできたのだ。子供たちから老蘇さんまでみんなが耀いて見えた! 

こんな時だ。その時その場に座る人同士で一家族を形成する「十人のテーブル」の仕組みからの無言の催促や力づけに触れるのは。何かほのぼのとした温かいものに包み込まれる“奇跡”に気づかされるのは。

また例えば、自分の人生の大きな転機にかかわる人との出会いや結婚の経緯なども“奇跡”としか名づけられないものだ。
自分はそのことを臆面もなく“ある愛の詩”と勝手に名づけて機会あるごとにみんなの前でおおっぴらに言い続けてきた。
だってそれ以外に堂々と胸を張って自分の言葉で語れる何ものもないからだ。あのときめく恋に落ちたような琴線に触れる体験というか「私はあなた、あなたは私」の親愛の世界との出会いこそ“奇跡”ではないのか。他になにも要らない。もうそれで満喫謳歌。
そういえば自分らの全人幸福運動も、「かなわぬ恋ではなかろうと、チョッピリ出した手がこの知的革命案です」(『ヤマギシズム社会の実態』)だった。

そんな誰のなかにも眠っているその人なりの“奇跡”が日々新たに呼び覚まされ、ときめく最適な場として“奇跡の村”がある!
この書には、実顕地という共に働き、共に暮らす場からおのずと浮かび上がってきた、一人ひとりの“奇跡”が綴られている。何気なく、当たり前なこととして、それはある。
    
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