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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(60)

自分のことを自分でソッと思い返す

山岸巳代蔵の草稿の中に「無契約結婚」と題した一文がある。

“ひとには辱かしくて云いそびれる人も、自分のことを自分でソッと思い返すことは出来るであろう。生まれながらに立てる子馬のように、スックと立ち上がって天上天下を指さしたと謂われるシャカ(釈迦)やシャカに類する人はそっとしておいて、お互い生まれ出た時の無想意だったであろう凡夫の自分から初めよう。人一人一人異うだろうから、自分自分で考察してみよう。
母が父と何月何日にこのわたしを産もうと約束したかどうだか、わたしにはわからない。わたしは父や母に約束したようにも、産んで下さいとも、育てて下さいとも、頼んだようなおぼえがない。契約なしに、しかも何の思慮もなく、あてもなく、のめり出たらしい、むろん何歳まで生きようとか、何をしようとか、何々をしなければならないとかの予定もなしに。
八卦見や神霊がかりの人には、一生の運命がわかるそうだし、透視術を心得ている宿命論者には、曰く因縁がつけられるかわからないが、僕の場合、物心がついてから両親に聞いたところによると、長兄、次兄と二つ違いで産まれているから、次は急いで欲しいとも願わなかったうちに、いつか知らない間に宿ってしまったらしく、「宿ったなれば仕方がない。上二人とも男だから、セメテこんどは女なればよいが」と、あまり邪魔にもされず、また胎内でも静かだったので、女だと思い込んでいたのに、産まれ出て見れば、また男を象徴しているので意外だったそう。
親の考えもアテにならないもの、この世の人は思い違いをよくやるもので、また願うようにもならず、願わぬ事が次々と実現する。
「親の言葉となすびの花は千に一つのアダもない」とよく訓示をした親にしてこの通り、意外、案外の固まりで、わけわからずに、シャバ(娑婆)の風にさらされることになった。
親の意に逆らうつもりもなかったと思うが、これも親不孝の一つになるのかも知らないが、約束もせない、頼み頼まれもせない、何も知らない、わからないのに出来てしまったもので、どうとも致し方なかったことだろう。今さらどちらも責任が果たせるものでもなかろう。産んだ方に、育てる責任がある、義務があると責めても、育てただけくらいで、責任だ、義務だとて取り返しがつくわけでもなく、育てれば育てるほど、成長するにしたがいますます固まりが大きくなる一方で、もとの卵子と精子の結合以前に戻して貰わない限り、この事態解決とは云えまいし、絶対に出来そうもないこと。思い違いの多い親や誰かが、間違いの多い人間に育てあげて、責任を果たしたなどとは理屈が合わない。
中には早々と子供と離れて他へ走ったり、他界へ急ぐ人もあり、自分だけの子供として盲愛を集中する人、自分の子をひとの子もなし、子は誰の持ちものでも、おもちゃでもない、次代をうけつぐ大切な子として世界中の人の子の仕合せのためには命をかけて尽くす人もある。
育てる約束もしていないから、責任も義務もない筈だろうが、頼まれもせないのに、子は育てられている。
受胎した時は仕方がなかったものが、産んでからは仕方なしに育てるのと違い、また責任・義務で、育てねばならぬから育てるでもなく、忙しくとも、労れても、自分の生命を削ってでも育てるのは、契約や義務等でやれるような上ついたものでないからこそ、強いやさしい母となれるので、約束だからとか、責任や義務や職業で仕方なしでは負担を感じ、本当の子には育つものでない。”

と人間観念の思い違いばかりのアテにならない中で人間本当に真面目で正直であるなれば、本当の契約は出来るものだろうか?
そもそも責任・義務を果たす果たさないとかの繋がりで本当の子に育つものだろうか?
また思い込み、予定のキメツケなどもみな約束の部類に入るのではないか?
等々と自分自分を実験資料と見なしてふり返る。

しかもそのふり返り方は、この間の文脈に沿えばあの禅問答式での、
○闇の夜に 鳴かぬ烏の声きけば 生まれぬ先の父(母)ぞ恋しき
○父母未生以前の本来の面目如何
といった文字や言葉で言いあらわせない人の本質的な部分にふれようとする試みである。

またなかには固い約束を自分で結んで信じ切って、外れた時に自分を苦しめ、他を苦しめることになる〝自分で自分を縛ることで不自由この上もない〟現象も多々見られる。
だとするなれば、約束等とは本当はどんなものかハッキリ知っておく必要があるのではないか、と一貫してラディカルなのだ。
約束は必ずしも果たせるとは限らないもの、アテにならないもの。信じ信じられないお互い同士。
ではどうしたらいいんだろうか?

そんな信じ信じられないお互いが本当だとするなれば、そんな思い込み、キメツケで縛った観念に囚われて自他を騙したり苦しんだりしない〝無契約〟の約束の要らない仲、信じ合おうと言わないのに間違いの起こらない仲が本当ではなかろうかとさらにたたみかけていく。

しかしこうした一文のくだりは、なかなかそのまま素直に受け取れない箇所だ。
だがしかし、

“忙しくとも、労れても、自分の生命を削ってでも育てるのは、契約や義務等でやれるような上ついたものでないからこそ、強いやさしい母となれる”
母と子 ピカソ

という一節に出会うと、一瞬にして本当なるものが立ち現れて来たような、なぜか思わずグッと熱くなるものがある。
〝強いやさしい母〟なのだ?! 
その〝強いやさしい母〟に成れるように連綿と親と子の間を繋いできたものがある!
その繋がりの源泉をくみとらねばならないとする切実な欲求が湧いてくるのだ。
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