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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(61)

〝母子系図〟の繋がり

さきの「無契約結婚」にも記されているように、〝わたし〟とは

“わたしは父や母に約束したようにも、産んで下さいとも、育てて下さいとも、頼んだようなおぼえがない。契約なしに、しかも何の思慮もなく、あてもなく、のめり出たらしい、むろん何歳まで生きようとか、何をしようとか、何々をしなければならないとかの予定もなしに。”

〝契約なしに、しかも何の思慮もなく、あてもなく、のめり出たらしい〟ものだという。
あの

“一日、或る人家の軒下を流れとどまる下水溝に、黒く細長い、蛭(ひる)にも蚯蚓(みみず)にも、八ツ目うなぎにさえも持たない、熾烈な悪寒を覚える醜体の、一匹の虫のうごめき”(わが一体の家族考55))

となんら変わらない存在だ。
しかし彼らにも、

“配偶者に会う仕組みは、うまく与えられてあるのか、種の絶滅もなきまま、こうして産み付けられた吾が身の不運をかこっているかどうか、詮索したくなります。人間の誰かと引き較べて。”

そこまでさかのぼっても存在する〝うまく与えられてある〟ものとは?
さきの受け継がれていく〝強いやさしい母〟に喩えられるあの「頑として動かない、この揺るぎない感じ」の圧倒的な存在感に思わず重ねてみたくなる箇所だ。
こうした人間に限らず他の生物一般にも、〝生まれ、育ち、婚姻し、子を生み、育て、老いて死ぬ〟といった似たような生活環を営むものもあるようだ。
生活環

だとしたら人間もまた良く生きられるように、人間の持つ知能をどのように働かせればよいのだろうか?
そのことは、親と子の間を繋いでいる永久に動かない変わらない実態にふれることでもある。
その辺りに山岸巳代蔵はふれている。

“山岸会では母子系図を作成しています。親から受けたものをその子孫に与える。会への導きをされた人を親とし、その親の心になって子孫に伝える人を、その親の子としています。性別、年令、国籍、賢愚、学歴、地位、身分を問わず、親はいつまでもこの系図から消えず、子のまたない良き親となって頂いているのです。
私の倫理 〝親は飽くまで、子に資するもの〟、枯木となって朽ち果てるとも、子に尽くし、子孫の繁栄を希うものとしております。子は自己の延長である。この身は永久に絶えない。交代身が子で、しかも社会連鎖の形で子孫に自己が生きているのであり、子孫の繁栄・幸福は自己を全うすることであります。親は子に与えて、与えて、持てる限りのものをなお与え尽して、子から親に対する報恩は決して求めない。唯願うことは、それをその子に、子は孫に与え、自己の欣悦の日常は子孫の欣悦に共通する繋がりを明示しております”(同行愛農会の諸兄姉に)

ここでの〝母子系図〟の繋がりには、夫婦・親子の血縁家族を律する「私の倫理 〝親は飽くまで、子に資するもの〟」と同時に、契約や約束の要らない本当の仲良い仲、世の中の繋がりにまで連接されていく質のものが込められてあるようなのだ?!
ここで見出された〝親と子の間を繋いでいる永久に動かない変わらない実態〟は、夫婦・結婚生活に限らず、この源泉をくみとることでこそ展開される仲良い楽しい世の中へと結びついていくところがミソなのだ!
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