自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(62)

親子の情愛と相愛社会

さきの〝母子系図〟の繋がりは別の箇所では次のように述べられている。

“ただ要するものは親が子を愛すると同じ親愛の情です。自分だけ覚えたら出席を止めて、後を教えて貰えぬと腹を立て、後かまわずに離れるでなく、後に続く人々に、自分の持てる凡てを、〝かつて自分が受けたように〟、与えて、与えて、与え尽す愛の心です。後れている人は吾が子です。吾が子に与える喜びに生きる、喜びの自分を発見するのです。私の持っているなけなしのものも、早く貰って欲しいです。貰って怪我や食傷せないよう、真の人間らしく早く成長して欲しいです。成長に応じて差し上げます。人と人とが、権利よ義務よの法律のみでは、円滑な、感じのよい社会生活は絶対出来ないもので、与えて喜び、受けて喜ぶ、相愛社会に永久の安定・繁栄があるのです。
組合や会を造っても、この精神が欠けていたならば、かえって物欲の突っ張り合いの場ともなるでしょう。
多くの会や団体が破綻するのは、寄る時の理屈・勘定はよいが、この団体を愛し、全員を愛し、真に自己を愛する相愛の精神が足りないためです”(『山岸会養鶏法』)

親子の情愛から突然〝与えて喜び、受けて喜ぶ、相愛社会〝へと飛躍しているようにもみえる。〝権利よ義務よの法律のみ〟を超えた社会生活が暗示されている。
こうした親子の情愛と相愛社会を結び付ける考えはかなり乱暴で牽強付会にもみえる。そんなことぐらいでこの現実社会が変わるはずがないとずっと小馬鹿にしてきたが、あながち自分一人ではあるまい。

ところがある日の研鑚会で、「報酬を省みない(タダ働きになる)事を無上の喜びと感ずる人」を研鑽したことがある。
タダ働きがなぜ無上の喜びとなるのだろうか、先ずもって実感が湧かない。次に
「次の社会には屈辱・忍従・犠牲・奉仕・感謝・報恩等は絶対にありませんし、そんな言葉も要らなくなりますから、他人のお蔭に甘えるわけには参りません」
との一節があった。
そこで甘えるとは、人の心からの親切などに対して「ありがとう」と感謝したり、お礼の品を届けたり、お金などの見返りで、それで事足れりと平然とその行為を帳消しにしてしまうことだと研鑽した。ギクッとした。
それは普段の自分の考え方であり行動である。何と自分は迂闊にも今まで、甘い考えで人の心からの行為を無造作に取り切ってきたのではないか?!
本来理想社会には絶対あり得ない感謝など何か観念づけたもので、たくさんの人の行為を消して当然のように立ち振る舞い、結果としては一般社会と何ら変わらぬ無味乾燥な社会づくりの片棒をかついできたとしかいいようがない、といった発見にも似た気づきがあった。

〝何か観念づけたもの〟が、自分と理想社会とを隔てている牆壁になっている事実を思い知らされたことであった。
さきの「無契約結婚」の一文にもあるが、
いくら“頼んだようなおぼえがない”からといって、

“産んだ方に、育てる責任がある、義務があると責めても、育てただけくらいで、責任だ、義務だとて取り返しがつくわけでもなく、育てれば育てるほど、成長するにしたがいますます固まりが大きくなる一方で、もとの卵子と精子の結合以前に戻して貰わない限り、この事態解決とは云えまいし、絶対に出来そうもないこと。思い違いの多い親や誰かが、間違いの多い人間に育てあげて、責任を果たしたなどとは理屈が合わない”
卵子と精子

と、この一件卵子と精子の結合以前にまで遡らないと何の解決もならない訳だが、そんなこと“絶対に出来そうもない”。
あの〝何の思慮もなく、あてもなく、のめり出たらしい〟ものが、どうも人間の存在根拠の本義に等しいというのだ?!
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