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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(63)

私の社会倫理とは?

さきに引用した「山岸会では母子系図を作成しています」(同行愛農会の諸兄姉に)からの一節から、
〝私の倫理「親は飽くまで、子に資するもの」〟
が導きだされた。そこから続く

“枯木となって朽ち果てるとも、子に尽くし、子孫の繁栄を希うものとしております。子は自己の延長である。この身は永久に絶えない。交代身が子で、しかも社会連鎖の形で子孫に自己が生きているのであり、子孫の繁栄・幸福は自己を全うすることであります。親は子に与えて、与えて、持てる限りのものをなお与え尽して、子から親に対する報恩は決して求めない。唯願うことは、それをその子に、子は孫に与え、自己の欣悦の日常は子孫の欣悦に共通する繋がりを明示しております”

という一文は、なんとなく自身の親のすねかじりの体験と重なって実感としても自分らの心情にしみ込んでくるにちがいない。ところが続く次の一節に出会うと、面食らってしまうのだ。唐突すぎはしないか?

“私の社会倫理 「自己より発し、自己に返る(還る」、これは心理学的に証明出来ますが、また物質に結び付いた物質面から説明するに、実在数理で割り切ることが出来るのであります”

いったい〝私の社会倫理〟って何なんだ?
この辺りに夫婦・親子の血縁家族を律する「私の倫理 〝親は飽くまで、子に資するもの〟」と同時に、契約や約束の要らない本当の仲良い仲、世の中の繋がりにまで連接されている実態が秘められているようなのだ。

私の社会倫理「自己より発し、自己に返る(還る)」って、原因があって結果があるというところからいったら、そういう原因があって、そういう結果が還ってくるという、必ずそうなるという結び付き、播いた通りの種しか生えないという意味だろうか。
「親の因果が子に報いる」という諺のような意味だろうか。
また世界のどんな片隅に起きた小さな事件でもみな必ず自分と関係がある。それぞれ無関係に暮らしていくことはできないという世界観だろうか。
さきの「次の社会には屈辱・忍従・犠牲・奉仕・感謝・報恩等は絶対にありませんし、そんな言葉も要らなくなりますから、他人のお蔭に甘えるわけには参りません」(ヤマギシズム社会の実態)との観点に立つと、一般常識的な蓄えや分け前や売り買いや報酬を考えないが、立替えの形で犠牲によく似た「自己より発する」行為が、必ず何かで終局的に「自己に返る(還る)」仕組みになってあります、というところだろうか。
どうも次元を異にする話なのだ。
そもそもここでいう「自己」とは?

ある日の研鑚会で、ここでも〝何か観念づけたもの〟に直面して次のような思いがふと湧いてきたことがある。
傘

“例えば雨の日、傘をさして歩いている時、向こうから傘なしで濡れてくる人がいたら、ふっと「この傘を使ったらいいよ」と差し出したい気持ちが浮かぶだろう。
でも普通はそんな一瞬の気持ちが湧き出すか否かに(でも自分の方が濡れて困るな)といった様々な理由など何か観念づけたもので打ち消してしまう場合が多い。もし実際に最初に浮かんだ気持ちで傘を差し出してみたらどうだろう。きっと相手も困っていた時だから、差し出されたものへの歓びもひとしお増すのが人の情ではないだろうか。
琴線に触れることで、自分も何かやりたくなる、贈りたくなる、次に繋げたくなるものが湧いてくる。それはいったい何の力に促されてのことなんだろうか?”

そんな自問を日々くり返していると、いつしか目に見えない感じないものへのなじみができてくるのか、何かほのぼのとした温かいものに抱擁(つつ)まれるのが不思議だ。
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