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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(64)

他人事は何一つない?!

私の社会倫理「自己より発し、自己に返る(還る)」については、いろんな例題で研鑽してきた。
なかでも次のような例題が心に残っている。
ナス

蔬菜部のAさんは、大きくなった学園の畑のナスを見て、早く採ったらよいと思った。そこでナスが収穫適期なので早く採って下さい、と学園にファックスした。
ところが翌日見るとまだ採ってない。またすぐファックスを入れ、次の日も採ってなかったので、もし採れなかったら連絡下さい、とまで言ったが連絡なく、もう仕方ないと思い、自分が収穫した。
しかしナスはもう成熟し過ぎて割れていた。その時Aさんは、「学園が採らなかったから割れてしまった」と思った。

日常どこにもあるありふれた話だ。ナスは「学園が採らなかったから割れてしまった」のではないか。ここのどこが問われるのだろう?
ところが研鑚会では「割れたナスは自分が採らなかったからそうなったのではないか?」と問われたのだ。

エッ? ナスを担当している学園じゃないの?! 学園のメンバーが採るべきナスじゃないの? ナスが割れてしまった責任は学園の側にあるんじゃないの? 

「でも、気づいたのは私ではないか。連絡しても採ってないナスを見た私が、採らなかったのではないか? 早くナスを採りたいという私の思いがあるにもかかわらず、ここは学園の担当している畑、だから学園が採るべきだという常識観念が入ってしまったから、ナスが割れてしまったのでは……」

何だか狐につままれたような気分がした。

「何かことが起こった時、『知らなかった』『気づかなかった』と普段何気なくいうが、それは理由でなく、自分から見た時それは原因ではないだろうか?」
「知らなくてやれていない、知らないから出来なかった、思い至らなかったのではないか? 自己より発していなかったから、還ることがなかったのではないか」

それはこじつけの屁理屈じゃないのか?
でもそういえば人に何かを委して、それがやれてなかったときに、自分がやらなかっただけなのに、半ば当然のように他人のせいにしているなぁ。

「世界中に起きる全てのことは、自己より発し、自己に還って来るという観方、地球上の全てのことは、自分から発しているという観方はどうだろうか?」 

そんなぁ、無茶苦茶や。

「いや、全てが自分に関係すること、他人事は何一つないのだ。全ては自分のやること、またはやったことなのだ。他を責めるということもない。事がなっていかないときも、自分がそうしていること。そのようにさせている自分に気づいて、後は自分がやるだけの世界が拡がるだけじゃないの」

といわれても、なかなか肚に落ちるところまではいかない。

ふとさきの「傘の例」と重なる瞬間があった。そういえば、はじまりの「早くナスを採りたいという私の思い」はどこへ行ってしまったのだろう?
きっと「ここは学園の担当している畑、だから学園が採るべきだという」〝何か観念づけたもの〟で見失ってしまったのだ!
他人事は何一つないのだ?!
私の倫理「親は飽くまで、子に資するもの」と私の社会倫理「自己より発し、自己に返る(還る)」が一致する場所はこの辺りにあるのではなかろうか。
今少し踏みこんでみる。
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