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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(70)

〝母子系図〟の繋がり

人の母子に限らず親鳥が雛に餌を与えている姿や動物の赤ちゃんが一心不乱におっぱいを飲む姿を見つめていると、衝動的にいつまでも眺めていたい気持ちにかられる。

赤ちゃんが生まれてすぐしたいのは、おっぱいを飲むことだ。おそらく匂いを頼りに乳首を探りあてる。そして満ち足りるとまたうとうととうたた寝をくり返す。それと同時に母親も赤ちゃんにおっぱいを吸われる喜びが齎される。
求める(受ける)ものと応える(与える)ものとが全面一致している喜びの姿であろう。
そんな喜びの姿に、母親も〝かつて自分が受けたように〟吾が子に与える喜びに生きる、喜びの自分を発見するのだ。
自分の持っているなけなしのものも、早く貰って欲しい。貰って怪我や食傷せないよう、真の人間らしく早く成長して欲しい、と。

そんな受けるばかりの自分らは、生涯母体に抱かれ母乳を飲んで暮らしているようなものだ。肉体を受け、生命を受け、豊富な物質や健康を受け、温かみと親しさが籠る親愛の情に充つる世界までが一方的に齎されている!
こうした齎す人は既に齎される恩恵に浴しているという〝与えて喜び受けて喜ぶ〟実態についてもっと想いを馳せてみたい。
あの母と子の間を繋いでいる、赤ちゃんが母親のおっぱいを吸う喜びと母親が赤ちゃんにおっぱいを吸われる喜びとの一致には、どんな実態が秘められているのだろうか、と。

例えば鹿など動物の授乳では、子鹿は前から首を入れて、母親の後ろ脚間にある乳首をくわえて乳を飲む。その間母親は子鹿の尻をなめてやったりする。
子鹿の授乳光景

赤ちゃんは唇と舌を使ってただひたすら匂いと温かさを頼りに乳首を探し求め乳を吸い取り乳房の肌触りの感触を味わいつくす。そして満ち足りると安らかな眠りや排便などがくり返される。一方母親は、おっぱいが足りない時、おしめが汚れた時、眠りが足りない時に、不快でむずからないようにと忙しくても、労れても、自分の生命を削ってでも〝与える喜びに生きる〟世話が連綿とくり返される。
というのも既に母親も〝かつて自分が受けたように〟与えて貰った恩恵に浴しているからに他ならない。
しかもこの食(授乳)を介しての母と子の繋がりの喜びは、自ずと性(対)を介しての母(女)と父(男)、夫婦の繋がりの喜び(快楽)を抜きにしては生まれようがない。

それゆえ次の、
「人は、人と人によって生れ、人と人との繋がりによらねば、自己を次代に継ぎ、永遠に生きることは絶対に不可能で、その関連を知るなれば、自己一人限りとの考えは間違いなる事が解り、お互いの間に愛情の含まれるこそ、真理に相違なく、……」(『ヤマギシズム社会の実態』)
といった一節から、永遠に生きたいとする本能的欲求の現れでもある自己なる主体は、両親を親の親の親を辿っていけば……子孫の行く末の、末の結合を考えれば……幾千里離れていても夫であり妻であり、兄弟・親子の間柄にあり皆血の繫がる人類全体の繋がりの結び目の一つだと知らされる。

主体は自分にもひと(他人)にもないのだ!?
こうした〝母子系図〟の繋がりのことを、この間自分らは
○私の倫理「親は飽くまで子に資するもの」
○私の社会倫理「自己より発し、自己に還る」
と呼んできたのだと思う。また
“理想社会にはこの温かみと親しさが籠っていて、人情の滲み出る気風を添えてこそ、完全なものです。”
ともあるが、こうした倫理観の発露が主体となって始めて〝わが一体の家族〟が立ち現れてくるにちがいない。
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