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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(74)

〝二つの私〟を知る

その頃山岸巳代蔵は、山岸会全國大会や「百万羽科学工業養鶏」構想の講演時に本名とは別の〝大村公才〟なる名を自称していた。その謂われを愛情研鑚会の中で次のように語っている。

“私は大村キミオっていう名をつけた、あれはね、ねえ、「全人に適当に使われたらいいんだ」っていう、そこから出た、あの夫(オット)っていう字を書いたんですわ。夫(オ)は、それではやはり一般を刺激するから、才(サイ)という字を書いてますけどね、夫(オット)という字、大村公夫って。
一旦あのねえ、瀬戸内海でねえ、ねえ、私はもう、ワタシは捨てたんですわ、ね。私を必要としやね、ねえ、相合う人あるなれば自由に使ったらいいじゃないかって、大村公才(キミオ)。そういう私の観念を象徴する意味で大村公才とつけたんです。
大村は世界っていう意味ですわ。ねえ、世界っていうことは、今の世界じゃない、永久の世界ですがね。世界の中で、ねえ、それで公才とつけたのはね、私のまあ才能って、そんなおこがましいもんじゃございませんよ、ねえ、能力そのものをやね、世界中の人のために役立つものがあるなればですよ、はっ、使われたらいいんだって、この気持なんですわ。で、いずれもこれは通じる「オ」なんですわ。”

ここで瀬戸内海に捨てたワタシの「私」、私心のワタシと「全人に適当に使われたらいいんだ」との気持から出たキミオ〝公才〟を二つに分けているところがじつに興味深い。
例えば幸福と云う言葉でも、一時的の満足感を幸福だと思い込んでいる〝幸福感〟と何時になっても変わらない〝真の幸福〟との二つの場合に使われるように……。
全てのことは〝何でも二つある〟ことを知るところから始まるのかも知れない。

長年認知症のケアに携わってこられた精神科医・小澤勲さんが辿りついた〝二つの私〟に分けての考察も興味深い。
「認知症体験の語り部」として知られるクリスティーン・ブライデンの著書(『私は私になっていく』等)に刺激を受け、かつ自身のがん告知を受けた体験を重ねつつ、そこから感じとられる人と人との繋がりの結び目としての〝自分〟という感覚に着目し、その繋がりにこそ自分を支え充実したものにしてくれる〝光明に至る道〟を見いだされていく。
小澤勲

“知的「私」、情動的「私」
知的な「私」の壊れに比して、情動領域の「私」(情動的自己)はあまり崩れないということについて、このようなことを書いたことがある。
私は、情動的「私」という言い方はあまりしてこなかった。それは、認知する「私」はどこまで行っても自分が認知している、という感覚から抜け出ることはないだろうが、情動を持つ私は確かに私なのだろうが、ともに喜び合い、いっしょに悲しんでいるうちに、それらは人と人とのつながりのなかにとけ込んでゆき、私たちの喜び、私たちの悲しみになり、「私の情動」という感覚を超えるのではなかろうか。
桜や紅葉を見て、最初は自分がうつくしいと感じているのだが、そのうちに対象と自分との境が消えて浮遊しているような、不思議な感覚にとらわれることがある。
私はかつて山登りをしていたが、ご来迎の瞬間、期せずして「おーっ」というどよめきが周囲に起こる。ところが、しばらくするとしーんと静まりかえって、恍惚としたというのだろうか、自分がご来迎を見ているという感覚を失い、自然に包まれ、自然と一体となって、自分がなくなってしまったような感覚に陥ったものである。性の世界を考えるともっとわかりやすいかもしれない。”(岩波新書『認知症とは何か』)

認知症とは悲しく恐ろしい自我の崩壊のようにいわれるが、一方では自分が自分であるといった執拗な〝自己同一性へのこだわりが解け〟て、〝世の規範、常識から少し自由で、世間体など気にする必要のない、暖かく豊かな人と人とのつながりがあふれている場〟にもなっているはずだというのだ?!

自分にも思いあたる節があったからか、我がことのように嬉しかった。しかもそうした情動的な世界が〝性の世界〟に通底している云々の個所はとても示唆的ですぐに納得できた。
この辺りを行きつ戻りつもっと丁寧に辿ってみることから、必ずやヤマギシズム恋愛・結婚観が開かれてくるような予感に心充たされる。
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