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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(75)

情感溢れる〝幸せの原風景〟

人間平穏の時は底が見えないが、何か事が起こった時、地金を出すものといわれる。先の〝自分にも思いあたる節〟にも通じるかと思うが、自分自身にもにっちもさっちもいかない状況に追いつめられたことがある。
そんなときに唐突に思いもよらない光景がくり返し自分の中から湧き上がってきた。初めのうちは難関難局にぶつかって、自分は甘い世界に逃げ込んでいるのかなぁといぶかっていた。

それにしても不意に現れるそうした情動的な世界に浸っているとなぜか心地よかった。何時しか自分の中で〝幸せの原風景〟とも呼べるものになった。その時の感受をずっと以前自分でも思いがけなく言葉にしてみたことがある。

“そうした他を思いやるYさん夫妻のさりげなく差し伸べられる心の手の恩恵を一番たくさん被ったのは実際ぼく自身ではなかったのか。朝寝坊の得意なぼくは、時として朝一番の水やりやエサ見を怠った。そんな時は必ず奥さんが代ってやってくれていた。そして遅れてやってきたぼくの顔を見て恥しそうに、「フフフッ」と微笑むだけだ。ちっとも批難がましいことは言ってくれない。これはかなりぼくの胸にひびいたことの一つだ。休憩時のおやつ作りの時もそうだ。どうしてあんなに素早く用意できるのか、ぼくたち若い飼育係にとっては毎日驚異のマトであった。自分が作って自分で食べるよりも、みんなが「おいしい、おいしい」と言って食べるのを眺めているさまが、その場での奥さんにとっては最も似つかわしかった。”(ある愛の詩)

それからはこうした〝幸せの原風景〟って、自分にとってその正体はいったい何だろうと思いを巡らす日々が続いた。そうした問いかけ自体とても心充たされる時間だった。しかも行きつ戻りつしたために、そこだけが踏み固められてあたかも自分だけの〝秘密の場所〟のようになってしまった。

今にして思えば、そうした情感が呼び覚まされたのは、この世界のそこはかとなく広がっている〈性〉の琴線に触れたからではなかろうか? 
そんな心当たりのようなものが芽生えてくるのだ。
父や母を始めとする繋がりの中で〝その蜜を吸って私は育った〟と感じる作家、詩人の森﨑和江さんは、そうした感受を〝エロス〟と名づける。
森﨑和江

“私は身近かで接したこの多くの人びとの、いのちのぬくもりにふれることによって、いつしか、私のからだと折合いがつけられるようになったのではないかと思う。ほんとうに、いつということなく、十余年たってみると心身にエロスがごく自然に流れているのを知った。うれしかった。
そんな挫折を経ていながら、それでも私は思うのである。一人ひとりの人間は、思春期になって性にめざめるとみえるけれど、でも、もっと早くから、ほとんど外界を唇や手足で感じとる赤ん坊のころから、原初のエロスは自他のかかわりの知覚の中に芽生えているのだ、と。そして、社会の性観念が人びとのセクシュアリティを大自然との呼応のまにまに開花させていたとしたなら、性暴力よりも性愛を主体とする観念へと、人間の性は様式化したのではあるまいか、と。”(『いのちの素顔』)

そんな情感溢れる〝性愛を主体とする観念〟世界に強く惹かれる。どんなことなんだろうか、と。
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