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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(76)

男らしさ女らしさ

ある日の研鑚会で次のようなことを研鑽した。
「男には女の要素が、女には男の要素がない。無い要素をはっきり自覚したら、男女問題は大部スッキリすると思う。要は、お互いに立ち入らないことだ。」
エッ、どんなこと?
〝無い要素をはっきり自覚したら〟とか〝お互いに立ち入らない〟って、どんなことなんだろう?
普段は生理身体的な凹凸の違いぐらいに思っていたからか面食らってしまった。
研鑚会は、男らしさとしての意志の強さとか貫徹や剛直をあらわす〈剛〉、女らしさとしてのすべてを包み溶かしてしまう〈やさしさ〉の世界について未知のことを知っていく楽しさに満ち溢れた。

今の社会では、差のあるものの差を認めないで、画一的にしてしまわないと差別のように思い違いしている事柄が相当あって、そのことと人間的平等や同権等と混同して、社会秩序を混乱させているきらいがある。
その代表的なものに、人間の中の男と女は、どちらも人間であるという本質的なものと、異性であるという本質的なものを混線して、何もかも性の異いまで、人間的平等や同権論で男女共通に律していこうとする無理があり、現在の進歩したといわれる良識の男女差別論などにそうした矛盾がみられる。
男は抑圧者であり女は被抑圧者であると対立としてとらえて、〝男らしさ〟や〝女らしさ〟というものは後天的につくられたものと主張するフェミニストもいる。
たしかに射精欲だけの男の女性への関わり方などは、一方的に立ち入った欲望の論理、強者の論理、力の論理、支配者の論理、闘争の論理などに塗り固められた勝利者慣例の域を出ることはなかった。後年女性たちから〝粗大ゴミ〟とか〝濡れ落ち葉〟として反発・見限られて当然かもしれない。
エロスの最も美しい発露としての男女の愛など未だ絵空事の世界だ。

男と女はまこと異質なもの。他を侵すことの浅ましさ、愚かさを気付くことだというのだ?!
〝女は男を知らず、男は女を知らない〟ともいうが、だからといってお互い相手を知ることでもなさそうだ。
『ヤマギシズム社会の実態』にある、
“男は男として生き、女は女に適した生き方こそ、幸福な人生です。”
に通じる世界なのだろうか。

そういえば若かりし青年マルクスも、男性の女性に対する関係は、人と人とのもっとも自然な繋がりなのだから、そこにおいてこそどこまで自然と人為の調和がはかれているかの人類発展史のバロメーターになると洞察した一人だった。
若かりしマルクス

“女性を共同体的な肉欲の餌食ないし下女と見なす、という女性との関係のうちに、人間が自分と向き合う際の無限の堕落のさまが語られている。というのも、人間が自分と向き合う関係の秘密は、男性と女性とのうちに―直接的で自然な類的関係のとらえかたのうちに―明瞭な、断固とした、あからさまな形で示されているからだ。
人間と人間との直接的で、自然で、必然的な関係が、女に対する男の関係だ。”(『経済学・哲学草稿』長谷川宏訳)

男性の女性に対する関係は、マルクスの時代から創造性・能動性においてそんなに進化していなく未だ未知で未開拓なまま残されてあるようなのだ。
なぜ今愛情研鑽なのか、なぜヤマギシズム恋愛・結婚観なのかがしだいに明らかになってくるような気がしてならない。
あえて的を絞った考え方に立つことで、複雑に考えすぎないで人間が男ないし女としてしか存在し得ない世界即ち男らしさ女らしさの本質追究の先にひらかれる世界のみに焦点を絞っていこうというのだ。
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