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自己への配慮

自分にたいする配慮ということがすべてに優先する。(セネカ)

わが一体の家族考(78)

流れ雲のような状態

先の山岸巳代蔵の発言に、

“発作が起らないから、それでその、もう発作が起らない人間になったかと言うと、そうやないの。発作が起る前に、もう一応そらすから、そうなっていくわけで、やっぱりまだまだ発作起きるかもしれないと、発作が起らなくなったという立証にはならない、”

といったくだりがある。
ここでの〝もう一応そらすから〟というのは、理性が働いて発作が起こるのを避けたり、妥協してその場を糊塗しておこうとする状態をいうのだろう。しかし自分自身にも重々分かりながら、避けたいのだが、発作が出て狂乱状態になることがある。
この事実はいったい何なのだろうか? 修養が足らないからか、性格なのか、こういうものが人間の本質にあるのか、何かしらんものから山岸巳代蔵は逃れられなかった。
ここを掘り下げつけ抜ける以外に為す術がないところまで追い詰められていた。愛情が通じないもどかしさが昂じてくると〝もう自分自身がそういう愛情が通じない世界では生きていられない〟といった苦しみの分析・分離、及び原因究明が冷静に出来ない状態に翻弄されるのだった。
しかもだからといって

“こういう世界のことは立証するために実験できる性質のものでなく、実験のための形だけのものなれば、出来てもそれはホンマものではなく、わざわざ実例を作ろうと思って作れるものではない。”(『恋愛と結婚』の前書き)

だがしかし、もう立っても居てもいられなくなった場面で、たとえば「エエイ、面倒くさい」と二階から飛び降りようとしたまさにその時、クッと止める人が現れた! 
何とかして燃やしてやろうとアパートの台所に灯油をこぼして、マッチを擦って、擦って投げるのだがなぜか火が飛び火しなかった!

そういう不思議なことが性懲りもなしに何回もあった。危ないとこだった。
と同時に〝天佑〟なんだろうか、何か明るい見通しが立ってきたような、正しいことなれば生かされるというようなものを感じるのだった。生きていたいこともないし、死にたいこともないと。全人幸福のためなれば、役立つなれば生かされるだろうといった自分の考えや力の入らない流れ雲のような心持ちが湧いてくるのだった。
浮き雲

そういう場に立たされて、そう仕向けられたらそう言わざるをせざるを得ない自分を批判的に振り返えりながらも、荒縄で縛ってでも腕づくででもお互い止め合うといった謂わば〝一体の繋がりの中で放っておかないもの〟に自分が吹っ飛んで無くなるくらいリアルに出会ったのだった!
そんな心境を浮き雲に托して〝天佑〟を齎してくれるものを次のように表現する。

“で、自分でなしに、傍から受けるものでね、どっちでもこう、ね、やっぱり雲のようなものやね、ファーッと風が来たらファーッと、フウーッと来たらスウーッと行くね。どこへ行くか分からへん。”

この間の愛情研鑚会の〝にわ〟(柔和子)と〝みよ〟(山岸巳代蔵)のいつ終わるともなく続く修羅葛藤の愛情劇の最中でこんな発言に出会うと、ホッと救われるような気がしてくると共にファーッと何か温かいものに包まれてくるようなのだ。
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